E 通り雨
その人はある日突然、何の前触れもなくやって来た。
恋人である道吾の部屋でセックスして、気持ちよく疲れてうとうとしていた時だった。
鳴ったインターホンは一度はスルーしたけど、しつこく何度も鳴るから諦めた家主がドアを開けた。
こんな時間に勧誘?なわけはない。酔っ払った友人とか?だとしたらこのままじゃまずいか。起きて服くらい着ないと。上がってくるかもしれない。
「何なんですか!急に」
メガネを探してもたもたしてたら、丁寧語ながらも強い口調が聞こえてびくりとする。普段耳にしない声だ。
ここからじゃ玄関は見えない。不審がられない程度に身支度を整えて様子を窺う。
「2年も放っておいたから怒ってるのか?」
見えないけど声は聞こえる。相手の言葉が、ズキンと響いた。
その会話って。
「怒るっていうか…」
道吾にとっても思いがけない来訪だったんだろう。言葉にならず苛々している感じ。
「上がっていい?」
問答無用な押しの強さがある人だ。道吾よりも目上の人で逆らえないのかもしれない。
「ちょ…」
道吾は相手を止められなかった。
俺は斜め掛けのリュックを背負ってその人を見上げた。少し驚いたような顔をされた。
「ああ、来客中だったのか。悪い」
「こんばんは」
綺麗な人だな、と思った。ちょっときつそうだけど、でも綺麗。その綺麗な人は傘を持っていなかったらしく全身びしょ濡れだった。
「道吾、シャワー貸してあげたら。風邪ひくし」
後を追ってきた道吾に向かって言うと、道吾はぎゅっと唇を結んだまま濡れた腕を引っ張った。
「こっち」
去り際に、その人の視線がもう一度こちらに向けられる。
俺は会釈をして立ち上がり、玄関へ向かった。
ここへ来る前にはそんな気配もなかったのに、ドアを開けると大雨。ビニール傘を1本借りる。
借りたものの気休めで、階段を降りて1歩外に出たらすぐに濡れた。
呼ばれた気がして上を向く。水滴がメガネに当たってよく見えないけど、アパートの3Fの玄関の外の通路から道吾が身を乗り出しているようだった。
「野塚!!」
「濡れるよ」
聞えないと思ったけどそう応じる。そして手を振って歩き出した。
道吾とは同じ大学だ。それぞれ1人暮らしをしていて、大学の近くに住んではいるものの方向が真逆だから歩くと30分くらいかかる。大学を突っ切るのが一番早い。
慣れた道を黙々と歩いた。メガネを外してポケットに入れる。外したら全然見えないけどこの雨ではあってもなくても一緒だ。
さっきの人は道吾の恋人、か。
2年も放っておかれてたのか。道吾かわいそう。
あの感じだと、別れたっていうより自然消滅って道吾が思い込んでたみたいだ。ということはやっぱり恋人同士なわけだから、俺が邪魔になる。
道吾のことは好きだけど、すごく好きだけど、終わってしまうのか。
残念だなぁ。
黙々と歩きながらそんなことを考えて、家に着いたら傘を差してたはずなのに髪の先までびしょ濡れだった。さっきの人よりもっと。
でも、誰も迎えてくれる人とかいないし。
俺もかわいそう。
『昼飯一緒に食おう。学食で』
朝一でそう道吾からメールが来た。
なら何か奢ってもらおう。それくらいしてもいいだろう。
濡れて帰ってシャワー浴びてぐっすり寝た。風邪なんかひかなかった。
低気圧はまだ去らず、昨夜ほどひどくないけど相変わらずの雨。
あんまり深く考えたくないから昨日借りた傘を手に黙々と大学へ向かい、粛々と授業に出た。友達の誰も、いつもと違うなんて言わなかったからいつも通り振舞えていたはず。
課題提出に手間取って昼食には少し遅れた。混んでる学食は人が多くてどこにいるのか見当もつかない。きょろきょろしていたら後ろから呼ばれた。振り返ると道吾がこちらへ近づいてきて、奥の方のテーブルを指差した。
「野塚。席あっちとってる」
「うん」
連れ立って食券の列に並ぶ。
道吾も普段と変わらないように見える。
奢ってもらおうと考えてはいたものの、考えただけで言わなかった。自分で食券を買ってカレーのカウンターへ向かう。カツカレー大盛り。自分への景気付け。自腹だから高くつくけど。
道吾はA定食らしい。そっちは魚の煮つけ。健康によさそうだ。
向かい合わせで席につき、いただきますと手を合わせた。
「昨日、ごめん」
スプーンを手にカレーをすくう。道吾は箸を手にしたものの、すぐには食事を始めなかった。
「うん」
「弁解してもいい?」
「いいよ」
俺はカツを咀嚼する。美味い。
「昨日の人、桐山さんっていうんだけど、2年前まで付き合ってた」
「そうなんだ。綺麗な人だよね」
道吾はカレーを食べる俺を見ている。俺も飲み込んでから顔を上げた。
「1個上の先輩で、どっちかというとオレが一方的に好きで、付き合ってもらってたというか」
「明らかにあっちの方が立場上だったもんな」
「元々そんな感じ。で、2年前あの人が卒業して、そしたらぷっつり連絡が途絶えて」
「そりゃショックだっただろ?」
「まあ。でも、本気で付き合ってもらえてるのかよく分からなかったし、当然といえば当然かとか思ってた」
道吾がどう思ってたとしても、付き合っていたというからには桐山さんだって道吾のことが好きだったんだと思うけど、あんなにはっきり強引に押し切るタイプなんだったら、道吾が年下な分気後れするのも仕方ないか。
「丸2年完全に音信不通で昨日突然現れたんだ」
「ふうん。それで?」
尋ねると道吾は困ったような表情になった。
桐山さんはきっと、2年前と変わらない態度だったんだろう。そのブランクなどなかったかのように。道吾はきっと嬉しかったに違いない。嫌いで別れたわけじゃないんだし。
めでたしめでたしだ。
「何があったのか分からないけど、道吾のとこに戻ってきたんだよ、あの人。他の誰でもなく」
贔屓目じゃなくても、道吾はまっすぐで優しくて芯が通っててかっこいい。だから男女問わず友達も多い。桐山さんだって道吾のどこかに惹かれてて、道吾のことを忘れなかったから再び現れた。
「ああ」
「道吾はそれを突っぱねる?」
「だけど」
できないと思う。できないけど、俺のことも気掛かり。だって優しいから。
桐山さんとのことを、俺は今まで全然知らなかった。でも道吾はずっと、その人を失って寂しかったのかもしれない。そこへたまたま俺が現れた。気が合って付き合うことになって寂しさも紛れてきて、何もなければそのまま桐山さんのことは忘れるつもりだったのかもしれない。
「どっちかしか選べないよ」
「分かってる」
「俺は、あの人放って置いたらかわいそうな気がする」
「…野塚」
何か言いたそうに、道吾が俺を呼ぶ。けれど何も言わずに魚に手をつけた。
そのまま他愛のない会話を少しだけして、今日は同じ講義が1つもないからそのまま別れた。
「野塚、今日飲み会どう?」
3コマが終わってバイトまでの時間をつぶそうとサークル室へ行ったら先輩にそう声かけられた。ちなみに草野球サークルで本格的な野球部とは違う。気が向いたらキャッチボールをして、たまにご近所の草野球チームと試合して、飲んで親睦を深めたりする。
「バイト終わってからでもいいですか?」
「何時?」
「21時に終わるんで、それから」
「丁度2次会行くくらいだろ、いいよ」
「え。逆にそれ嫌かも」
「ああ?」
「いや、なんでもないです」
バイト後の飲み会は疲れるからやめとくことが多かったけど、今日ばかりは何かそういうがやがやしたとこに参加したい気分。まあこれも全部道吾のせいだ。道吾のせい?いや、桐山さんのせい?…自分のせい、かも。
引き止めなかったのは自分だ。だって、勝てる気がしなかった。今付き合ってるのは俺なんだからって、引き止めてもよかったはずなのに。
道吾はがっかりしてるかな。ちょっとはしてくれたらいいけど。
17時から21時までカフェレストランでのバイトをこなした後、止まない雨の中2次会の場所へ行くと、1次会で半分くらいは帰ったんだろう、男ばっかり10人弱。ついさっきまで女性やカップルの多いとこにいたからギャップが激しい。
「野塚、こっち!」
見れば分かるのに酔っ払っている先輩に大声で呼ばれて頭を下げた。
「めっちゃ気分よさそうですね」
空けてもらってた席につき、とりあえず生をと注文する。隣は酔ってつぶれてる姿なんか見たことない大村さんだったからほっとした。
「バイトおつかれ」
「遅れてすいません」
「いいよ。ていうか珍しいし」
「ちょっと、ヤケ酒な気分で」
そうぼやくと向かいのさっき俺を呼んでくれた北条さんがめっちゃ食いついてきた。
「おお!!何!?」
いっそ酒の肴にして発散してしまった方が楽かも。
お待たせしました〜という明るい声と共にジョッキがやってくる。
改めての乾杯の後、愚痴を零し始めた俺は勧められるまま散々飲まされて、ぐだぐだに酔っ払った。俺の失恋話を喜んで(?)、かつ哀れんでくれたおかげで奢ってもらえたのはラッキーだったけど、その実記憶がない。
「野塚、しっかりしろって」
「う〜〜〜、だいじょ…」
大丈夫、と言いながらまっすぐ歩けないのは酔っ払いの典型だろう。
外に出るとまた雨が強まっていた。雨ばっかり。気分が更に落ち込んでいく。
「誰だよそんなに飲ませたの」
「お前らだろー!」
「傷心だったんだからいいじゃねえか」
「しょーがねえ、うち方向一緒だから引きずってくわ」
「おー、頼んだ」
先輩達の無責任な会話が頭の中を素通りしていく。
「ほら、行くぞ」
誰かに腕を掴まれて文字通り引きずられるようにふらふらと歩く。
1本の傘に無理矢理入って半分雨に濡れながら、びしゃびしゃとわざと道路の水を跳ね上げると捨てていくぞと脅された。昨日は1人だったけど、今はそう面倒見てくれる人がいるからそんなに空しい気分じゃない。
「先輩、うち寄って行きます〜?ビールありますよ」
「まだ飲む気か!?」
呆れたような声で言われて笑いが込み上げた。
人恋しいのか。頭の奥の方でほんの少しだけ客観的にそう考える。
「だったらもううち行こうぜ」
「お!泊まっていいんですか〜?」
「お前んちまで行くの面倒」
「やった〜」
面倒な酔っ払いを抱えてきっと本心から先輩は言ってるんだろうけど、遠慮なく歓声を上げた。声でかいと窘められてまた笑う。
「野塚!!」
窘められた傍から大きな声で呼ばれてびっくりした。雨がざあざあ降ってるから、相当大きな声。街灯が遠くてよく見えないけど、10メートルくらい向こうに人影がある。
目を細めたけどやっぱり見えなくて、顔を触ったらメガネがないのに気づいた。
ポケットをはたく。
「あれ?」
鞄に手を突っ込んでかき回す。
見つからないから中を覗いたけどやっぱりない。
俺がそんなことをしている間に、ふらついて倒れないようにと支えてくれてた先輩が相手と何か話している。
「君がそうか」
そういえば誰が泊めてくれるって言ってたんだ?とめっちゃ顔を近づけてみたら、大村さんだと分かった。散々迷惑かけといて相手を誰だか把握してないってのも酷い酔っ払いだ。今日飲んだメンバーの中で一番面倒見のいい先輩だから納得。
「心配しなくていいよ。ちゃんとうちで面倒見るから」
うんうん、見てくれると思う、と他人事のように考えてたら急にぐいと腕を引かれた。
「結構です。野塚、行こう」
「あれ?道吾?」
「あれ?じゃないだろ。何やってんだよ!」
苛立ったように強い口調で言われて、それが頭に響く。何って飲んで来ただけなのに何怒ってんだよ。そもそもそっちが悪いんじゃん、とか責任転嫁してみたりとかとかどうでもよくてとにかく。
「う〜〜〜」
呻いて俺はその場に蹲った。
「野塚?」
2人が心配して近づく。
「気持ち悪い」
「ちょ…!」
「あとめがねない」
「あ〜…」
残念そうな2人のため息が聞えたきり、完璧記憶ない。
カーテンが開く音がして、明るい日差しが瞼越しに刺激を与える。
「今日授業ないの?」
「う〜〜〜」
寝返りを打つと頭がガンガンした。
「さぼる」
「あっそ」
動きたくなかったけどトイレに行きたくて仕方なく体を引き起こす。バタバタ布団をはたくと道吾が笑う気配がした。
「メガネないよ。忘れてきたんだろ」
「あー…、そうだったかも」
どうせ見えないなら目も開けなくていいやくらいの勢いで床に下り、色んなものをひっかけながらトイレまで行って用を足す。
手を洗いついでにコップ1杯の水を飲み干した。頭痛は治まらない。もう1杯。
「野塚。オレ、桐山さんとちゃんと別れたから」
「へえ〜」
道吾の言葉を聞き流してベッドに戻る。
「え?」
うつ伏せで枕を抱えるように寝転んで、それからやっとその意味を理解する。ぱっと顔を上げたらまたそれが頭に響いた。泣きそう。
「何で?折角戻ってきてくれたのに?」
道吾はうちへ来た時に定位置にしているテーブルの向こうからまじまじ俺を見る。
「野塚さ、オレと似てる」
「え?」
「まだ自信ない?怒っていいとこだろ、ほんとは」
やっぱりそうか。怒ってよかったのか。でも付き合って半年とかで自信とかつくもの?
「オレも、あの人と付き合ってる時そうだったから、何となく分かる」
苦笑しながら言う道吾の表情は穏やか。
「野塚がああ言ってくれて、ちゃんと話せてよかった。桐山さん、留学してたんだって。その気あるなら一緒に来るかって誘われたけど断った。別にアメリカ行きたいとかないし、オレがいなくてもあの人別に困らないし、それより野塚の方が気になるしって言ったら分かったって。邪魔して悪かったって言ってたよ」
「そんな」
道吾の部屋で鉢合わせた時から、もしかしたら桐山さんも察していたのかもしれない。まあ、察してくれないと困る。引き際がスマートな辺りやっぱりちょっとかっこいいけど。
「それでほんとにいいのか?」
本当は、ほんとに俺でいいのか?って聞きたいけどそんなこと恥ずかしくて言えない。今でも自信なんて全然ないし。
「まだ疑う?」
道吾は立ち上がって俺が転がるベッドの淵へ腰を下ろす。
「昨日ここ来て、でもいなかったから帰るとこで会ったんだけど、なんかあの先輩とかに嫉妬した。雨の中追い出すようになっちゃって後悔したのに、野塚はあんな雨の中知らないヤツとベタベタしてるし、何か呪われてんのかって思って苛々して当たっちゃってすいませんって言っといて」
「それ言いづらくね?」
「まあ。でも無理矢理連れて帰って来ちゃったし」
先輩達には確かに愚痴は喋ったけど、恋人が元彼と鞘に戻りそう、という話だけでは恋人が同じ男だってことまで分かるはずがない。だから、当たられたなんて思うはずがないのだ。
けど、そういえば大村先輩何か気になる言い回ししてなかったっけ?
思い出そうとしたけど全然駄目だ。あっさり諦めて枕に頭を埋める。
耳元に道吾の指が触れた。覆いかぶさるように体が近づく。キスなんて今更なのに、何か急にまともに顔が見れない。まあメガネがないからあんまり見えてないけど。
「メガネ取りに行かなきゃ」
「夕方店開いてからな」
「借りた傘なくしたかも」
「ビニール傘はそういうもんだよ」
「今度学食奢れよ」
「分かった」
どうでもいい話で誤魔化したくなるけど、触れそうなくらい近くで今度は道吾が言った。
「オレも一ついい?」
「あとで」
近すぎて見えなくなってしまえば構わず唇を貪った。
つい一昨日もしたけど、久々な気がする。たった1日かそこらのことなのに、随分沈んでいたんだなと今更ながら自覚した。強張っていた気持ちが徐々に落ち着いていく。
「通り雨みたいな人だったな」
「ああ…そうかも」
ふと思いついて言うと、身を起こした道吾は納得したように頷いた。
ほんの少しの期間、俺たちの間をかき乱して行った人。
「でも、今度何かあった時はオレを手放さない選択をして欲しい」
道吾が、さっき言いかけて俺が止めた言葉をさらりと口にする。そんな恥ずかしいことよく言えるなとか思ったけど、さすがの俺も茶化すことができなかった。
それは道吾が俺を選んだということだ。
「………分かった」
通り雨は過ぎ去った。
開いたカーテンの向こうの空は、快晴。
fin