O 驟雨

Physeter#
抹香

 突然降り出した雨に、小宮は慌てて近くの店舗の軒先に入った。

 ざあざあと音を立てて降る雨が軒やすぐそこのアスファルトをえぐるような強さで叩く。

 軒に溜まった雨水は、ポタポタなんていうかわいらしい音ではなく、切れ目ない滝のような帯を作って流れ落ちていた。雨宿りをしているはずなのに、滝を裏から見ているような状況だ。屋根の下にいるといっても跳ね返る雨粒で靴とズボンは濡れていた。髪も服も湿気を吸って重くなってきている。

 携帯を取り出し時間を確かめながら、ちらっと右へ目を向ける。

 二歩の距離を置いて隣に黒縁の眼鏡をかけ顎にひげを蓄えた男が立っていた。別に知り合いでもなんでもなく、雨が降ったときほぼ同時にこの軒先に逃げ込んだのだ。

 はっきりした目元とすんなりと嫌みのない口元が、好みだと思う。

 だからどうということもない。偶然雨宿り先で一緒になっただけの見知らぬ他人に笑顔で話しかけるほどの社交性の持ち合わせもない。

 携帯電話に目を戻すと目的地までの距離と時間を思い浮かべて、間に合いそうもないなと内心呟いた。

 幹事は忽滑谷だったはずだ。

 忽滑谷仁久と書いて、ヌカリヤキミヒサと読む。珍しいうえ難読な苗字の旧友を思い出しながら、連絡をしようとアドレスを探す。仕事もプライベートもごちゃごちゃの携帯の中身は雑然としていて、電話番号ひとつ見つけるのにさえ少し手間取った。

 あとできちんと分類しておこうと心に決めて通話ボタンに指を置いた。

「ヌカリヤ?」

 ちょうどかけようと思っていた相手の名がすぐ側で聞こえ、驚いて顔を上げる。

 気づけば隣の眼鏡の男が、携帯を耳に押し当てていた。

「雨が降ってきてさ、ああ、そう。ちょっと遅れるわ。場所は鶴田の店なんだろ? いや、行ったことねぇけど。まあ、近く行けばわかると思う」

 ヌカリヤという珍しい苗字に加えて鶴田の店ときて、小宮は隣の男に興味が出た。

 たぶん目的地は同じだ。世の中のどれだけの鶴田さんが自分の店を持っているか知らないが、たいして多くないだろうヌカリヤとセットなら、その鶴田は高校の同窓生の鶴田健児のことだろう。そして、同じく同窓の忽滑谷がセッティングしたのが高校三年のときのクラスの同窓会なのだから、とりもなおさず隣で電話をしている男も同窓生ということになる。

 こんな眼鏡が同じクラスにいただろうか。

 無意味に携帯をいじりながら思い返すが、小宮の脳内の同窓生名簿に該当する人物はヒットしなかった。

 ひげのせいかと思って、ひげのない姿を想像してみるが、どちらにせよわからない。同窓生かもしれないと思って見てみれば、隣の男の姿に見覚えがあるような気もしたが、先入観による錯覚という可能性も高かった。

 こいつ誰だ?

 チラチラ横目で眼鏡の男を見る。

 声をかければいいのかもしれない。だが、忽滑谷と鶴田だけを手がかりに、同窓生と決めつけて声をかけるのもためらわれる。もし間違っていたら、ただの変な人間だ。

 携帯電話をポケットに戻す。

 忽滑谷に連絡を入れる気持ちはすでに失せていた。

 少しばかり落ち着かない物を感じながら、なるべく左に顔を向けながら軒の向こうに見える空をうかがった。

 雑居ビルの合間に広がる空には、墨のような黒い雲がどんよりと広がっている。軽く首を傾けて頭上をうかがうと、切れ目のわからない雲の間から影になったビルに向けて紫電が走った。数秒の間を置いて、ガラスを割ったような神経に障る高い音が耳に鳴り響く。

 思わず身を引くと、背中が閉じたシャッターに当たって小さく音がした。

 隣から視線が向けられるのを感じながら、顔を逸らして平静を装う。

 子供の頃から雷は好きじゃない。

 さすがに女の子みたいにキャーキャー騒いだり子供の様に泣きだしたりはしないが、自分の上に落ちて来はしないかとビクビクしてしまう。

 頭上をまた紫電が走り。遅れて耳を覆いたくなるような轟音が響き渡る。

 無意識に身を竦めると、また肩がシャッターをかすった。

 雷なんかさっさとどっかへ行ってくれと思いながら、腕を組んで肩を丸める。本当はうずくまって頭を抱えていたいくらいなのだが、さすがにこの歳になってそれは情けなさすぎるだろうと理性がストップをかけた。

 とはいえ、周囲に人目がなかったらうずくまるくらいはしていたかもしれない。

 その唯一の他人である眼鏡の男が、唐突に「すいません」と言った。

「あの、間違ってたら悪いんだけど。もしかして、小宮?」

 名前をいい当てられて、振り返る。

 はっきりと正面から見ても、相手の名前は一向に思い出せなかった。

 一連の行動から同窓生なのは間違いない。

 だが、当然ながら高校時代のクラスにこんな眼鏡とひげの男はいなかった。

 だからお前は誰だよと思いながら見つめていると、男が不意にぷっと吹き出した。

「その眉間のしわ、お前やっぱ小宮だろ」

「そうだけど、あんた誰」

「ひでぇな、覚えてない? 俺、拝島だよ。拝島」

 その声と同時に周囲が真っ白になるほど強い光が降ってきて、ほぼ同時に轟音が鳴り響く。

「おっ、近いな」

 さすがに驚いた顔で拝島が軒から外を見上げた。

 その後ろ頭を眺めながら呆然とする。

 拝島という名前に覚えがないわけじゃない。名前を言われれば名簿から簡単に引っ張りだせる位置にそれはある。

 その名前を聞くと暗い雲の奥でゴロゴロと低くどよめく遠雷の響きを思い出す。

 一緒に引っ張り出される記憶は、高校二年の初秋。秋雨と台風がそこらじゅうを水浸しにする季節の真っただ中のことだ。

 下手な空の絵が描かれた半球形のすべり台の下にうがたれた小さなトンネル。今日みたいな豪雨と雷鳴。表面は冷えているのに中だけ熱かった自分の体と耳の奥に響き渡った鼓動。湿ったシャツ越しに聞いた、自分の物とテンポの違う心臓の音。

 耳に遠雷の響きに似た低い太鼓のようなとどろきがよみがえる。

「小宮さ、もしかしてまだ雷苦手?」

 明るい笑顔で話しかけられ、返事の仕方がわからなくなった。

 カッと体が熱を持って耳の内側が自分の心臓の音でいっぱいになる。

 拝島真之。

 彼は小宮が自分の性癖を自覚した一番初めの、片思いの相手だった。

 退屈な高校の三年間。

 小宮と拝島の間に特別ななにかがあったわけではない。

 ただ高校二年の秋のあの雨の日のことだけは、鮮烈に覚えている。

 席が近くて掃除当番が一緒だったせいで、ふたりだけ面倒な用事を言い渡されて学校を出るのがいつもより遅くなった。揃って学校を出て駅にたどり着く前に雨に降られ、逃げ込んだ先が近所の公園のすべり台の下。

 半球形をしたその遊具には、すべり台の構成要素である階段やコ型の溝以外に、丸い斜面を登るための手がかりや、用途不明の突起があって、下には子供用の小さなトンネルが開いていた。

 その狭い空間に身を寄せ合って、雨から逃れられたことにほっと息を落とした。

「橋爪のせいで、びしょびしょじゃねぇか」

 シャツを引っ張ってぼやく拝島の姿に、小宮は慌てて視線を逸らす。

 今日に限って用事を言いつけた教師に対して拝島がぼやく声を聞きながら、ドキドキと逸る胸を押さえる。

 拝島と近い距離にいることで、小宮は緊張しきっていた。

 席が近くてよく話をしたり遊びに行ったりはするけれど、ふたりだけのときにこんなに近くに身を寄せたことはない。子供用のトンネルは幅も高さも奥行きも足りず、鞄と自分の体を濡らさないように端から距離を取ると、自然と拝島と密着するような姿勢になる。

 シャツ越しに感じる体温に動揺した。ざあざあ降る雨にふさがれた耳の内側で、自分の鼓動が鳴り響く。ぎゅっとシャツの前を握って、しょうがないじゃないかと自分に言い訳をする。

 拝島のことが好きなのだ。

 それに気づいたのは二年の春になったときだった。友人としてではなく意識して、触りたいと思いはじめると、触るのも話しかけるのも気が引けた。

 こんな風に近くにいると、触れたところから自分の考えていることが拝島に伝わってしまいそうで怖くなる。

 うつむいて顔を隠し、できるだけ距離を取って体が触れないように心掛けた。

 バシャバシャと跳ねる雨水がズボンのすそにかかるのを感じたけれど、そのくらいは我慢した。それより問題なのは、空にときおり光る雷だ。

 建物の中にいても布団の中にもぐりこむほど雷が嫌なのに、今日は窓さえない公園のすべり台の下だ。いつもより音が大きく聞こえて普段より怖い。

 両腕で膝を抱え込んで、ぎゅっと唇を噛む。

 パッと光が散って雷鳴が鳴り響くたびに体がびくつく。

「小宮?」

 拝島が背中を軽く叩いてくる。

 腕の中から目だけあげると、薄暗い中で不思議そうな顔をしているのが見えた。

「あんまそっちにいると、濡れるぞ。こっち来い」

「えっ。いや、いい……っ」

 言葉の最後が雷鳴と重なり、うわずった悲鳴じみたうめきになる。

 拝島は目を見開いて少し黙り込んだ後で、強引に小宮の肩を引っ張る。

「濡れるから、な。こっち来てろよ」

 そう言って鞄ごと抱き寄せ、背中をぽんぽん軽く叩いて「ここなら大丈夫だから」と言った。

 抱き込まれる姿勢に、雨と恐怖で冷たくなっていた体が、急に熱くなった。頬や耳に血が巡るのが、熱でわかる。雲のせいで薄暗いことに感謝しながら、拝島に気づかれないようこそこそと顔を伏せた。

 そのしぐさをどう思ったのか、拝島はさらに近くへ小宮を引き寄せると、子供をあやすように背中をゆっくりしたテンポで叩く。

 逸らした横顔が拝島のシャツにこすれ、耳には彼の体を廻る血の、深く力強い音が聞こえた。それはどこか遠雷の響きに似ていて、落ち着かない気分になる。それでも、嫌な音だとは思えない。

 拝島はしばらく黙った後で、小さな声でなんてことのない他愛ない話をはじめた。

「宮田っているだろ? お前の三つ前の席のやつ。あいつんちにウサギがいてさ、遊びに行ったときにかまおうとしたら、後ろ蹴りを浴びせられて逃げられたんだぜ。後ろ蹴りだぞ? つうか、ウサギってもっとかわいい生き物なんじゃなぇの? さみしいと死ぬんじゃねぇの? なにあの強烈な蹴り。あれはねぇよ」

 返事をしなくても、拝島はときどき悲嘆にくれたり驚いたりする演技を交えながらゆっくりしたペースで喋った。

 最初がウサギの話、次が九官鳥の話で、その次はまた動物かと思ったら、今度は中学の頃の失敗談だった。完成しかけた課題の絵に間違って絵具をぶちまけて、時間がないからそのまま提出したら校外のコンクールで賞をもらってしまって、校長室横に張り出されるという羞恥プレイにあったとか、同級生がまるっきり嘘の本の感想文を書いて提出したら、それが読書感想文のコンクールで地方審査を通過してしまって、仲間内で大笑いしたとかいう内容を面白そうに話す。

 雷鳴の音に小宮が体をこわばらせると、拝島はいったん言葉を切って励ますように背中を手でさすった後でまた話を再開する。

 怯えて萎縮する体に、笑い交じりの拝島の話と、シャツ越しに伝わってくる拍動が聞こえる。雷鳴を耳から遠ざけ、すぐ側のふたつの音に耳を澄ませる。

 雨が上がるまでずっと、拝島の話声とシャツ越しの拍動を聞いていたのを覚えている。

 ただ、その後の記憶はおぼろだった。雨が降っている間の、拝島と触れていた時間ばかりが鮮明に記憶されていて、前後は曖昧にかすんでいる。

 それでも、雨が上がってすべり台から出たときに見た空が、やたらと綺麗だったことは覚えていた。

「あっ、止んだな」

 記憶のものより低い拝島の声がして、意識を現実に戻すと雨音が消えていた。

 雷鳴も遠雷の低いとどろきがわずかに聞こえる程度で、見上げても稲妻の瞬きは見えない。

「小宮、鶴田の店の位置ってわかるか?」

「わかるけど」

「じゃあ、走るぞ」

 ほらと手を伸ばされ、思わず右手を差し出しそうになってはっとする。

 なんだろうこの手は。

「拝島、これ」

「迷子対策。俺迷いそう」

「なあ、お互いにもう若くないって自覚はあるか?」

「なにを言う、俺はまだ若い」

 綺麗にひげを蓄えておいて、子供の様なことを言う。

 にやにや笑っている表情からすると冗談ではあるようだが、伸ばされた手を引かないところを見ると、やる気でもあるらしい。

「あっちにまだ雲あるし、またいつ降ってくるかわからないぞ。それにさ、前にこうやって走っただろ」

「なんだそれ、いつの話」

「高二のとき。公園の側で雨に降られてすべり台の下もぐりこんだの、覚えてねぇ?」

 覚えているもいないも、たったいま回想したばかりだ。

 手を繋いだ記憶はないが、もしかすると雨が上がった後の記憶の曖昧な部分でそんなことをしたかもしれない。

「ほらいくぞ」

 結局強引に手を取られ、はた目から見た自分たちがどう見えるのか怯えながら軒先を出る。幸いにして豪雨の後の街中には人通りはあまりなく、手を繋いで走る奇妙な男ふたりの姿に目を止める通行人もいなかった。

 案内しろと言われて、走りながら順路を告げる。

 鶴田の店が目視できる距離に近づいたところで、小宮は拝島の手を振り払った。

 汗で湿った手を膝につき、息を整える。

 顔は走ったこととは関わりのない理由で真っ赤で、耳まで熱かった。

 ちらっと視線をあげると、拝島は息も乱さず平然とした顔で立っている。

「小宮、お前ちょっと体力落ち過ぎじゃないか?」

「余計なお世話だ」

 痛いところをつかれて反射的にそう答える。

 すると、拝島が大きな声で笑って、小宮の肩を叩いた。

「お前って、雷が来てるときだけ大人しいのな。ホント、雷嫌いなの変わってないな。同窓会なんて、周りみんな誰だかわかんないのばっかりかと思ってたけど、お前はそのまんまで安心した」

「拝島は変わりすぎだ」

 なんだその眼鏡とひげと指差すと、にやにや笑って「カッコイイだろ」と自慢された。

 自信ありげなその態度に、なぜか無性に悔しい物を覚えた。過去の片思いが揺り返して来るのを、否応なく自覚する。

 肩を叩いて促され、拝島の隣を歩きながら、最初に彼を見たときに拝島とは気づかずに顔が好みだと思ったことは、胸の底にしまっておこうと強く思った。



O 驟雨