I 幸いを待つ

クラインずルーム
藤浜あおい

 待ちくたびれて、頬杖さえ折ってしまった。

 ため息にも独り言にも飽きた末、大欠伸ばかりを生み出している。

 二つ折りの座布団を枕に何度目かの寝返りを打ち、六畳間の真ん中に設えた宴卓を、足だけでそっと押しやる。器が傾いでしまわないよう加減して、そっと。

「ふ、あ」

 腕をのばして存分に解放する呼気を追えば、怠惰な体温から抜けてゆらりと縁側へ流れゆく。

 そこは灰色の、日の暮れた庭。

 ひと月越しの雨の気配が消えることなく、絶え間なく葉を濡らし、音もなく土に染みゆく。

 時間を忘れるには、こんな空も悪くはないものだ。

 しかし、逢瀬についての一切を疑っていないだけに、自身は気楽な風を思う。

 さあ。

 開口、彼は何と発するだろう。

 逡巡に暮れる手前で、再び目を閉じた。


 額に、冷たいものが触れた。

 覚醒とともに引き寄せる、不意ではあるが知った感触だった。こんな指先を持つ相手を予測しようとしたが、

「……誰?」

 視覚への反応が勝った。半身を起こした勢いで、その半身分退いていた。

 目前に座る人物に心当たりが全くないのだ。

「誰?」

「知らないか、まあ、そうだろうな」

 黒い和装の、若い男だ。透けるような青白い髪を長く垂らして、愉快そうな言い方のままこちらを眺めている。

 間を詰められる前にと急いで立ち上がってみるが、さらに驚いた。

「なん…なんだ、これ、なんで」

 自分のものとは思えない甲高い声が耳にひびき、見下ろすへそから大腿は思いがけなく目に近い。しかも服さえ着ていない。

 なぜだ。

 そもそも、ここはどこだ。

 疑問符を乱雑に一抱えしたものの、とりあえず、目前の知らない男をうかがって顔を上げた。

「なんで、俺……」

「うん、何でも答える。まずは名乗れ、ちび」

 胡座のまま差し出す手には、おそらく、直答に相応すると思われる白い衣服。こちらが勝手に構えるのを受け流すほどに、敵意を感じない。反射的に手を出し、

「名は……」

 そう始めたはいいが、肝心な先が出てこなかった。

 名前。

「俺、名前……?」

 意味は分かる。重要な基本タグの喪失であることも、分かる。しかし、出てこない。

 身体的にも、その内側も、漠然とした違和感の真ん中にいながら、経過と経路に絶たれた位置に目覚めたことだけが更に明確になった。

「名前……なんで…」

「うん、名が出ないならいい。俺がやる。それより、腹が減っているだろう」

 曇らない笑みのままするりと立ち上がるや、呆然とする裸体をこともなく引き寄せ、白い下着を頭からかぶせた。右腕左腕と順に通し、当然のように白い下履きにも片足ずつ介助した。

 その次に掲げられたものは、黒い。この男が着ているものと変わらない容。広げられてのぞく内側は、小豆色だ。真新しい感じではないが良い仕立てに見え、……仕立て、とそんな言葉を取り出している。着付ける手順にも、難なく従っている。こういうものを身につける記憶が体にあるということなのだろう。が、自分自身の名が思い出せないことに行き止まり、また先刻ちびと呼びかけられた通りの身体差であることも心中に大きく、黙っていた。

「よし。どこか、きつくないか」

 前下がりに整えた帯を見直して、最後に正面から訊ねられた。自信ある手に専断された圧覚に不快な部分はなく、素早くうなずく。そして、

「あの、あなたは」

「ふゆ、だよ。季節の、冬。知ってるだろ」

「あの、寒い、冬?」

「そう、寒いのが冬さ」

 嬉しそうに繰り返して、額に触れた。冷たくはなかった。

 最後に手渡された白い茶碗は、両手に乗った。大量の湯気が顔中に当たって、ひととき別世界に飲まれた。だが、そこから帰還してもなお、夢が続いているような気持ちでいる。黒い食卓、赤い箸置き、桃色がかった萩焼の大皿はどれも素朴で、

「これは、生姜と手羽先のスープな。熱いから、気をつけてな。あと、そっちのが蕪。こっちが大根と、そぼろは豆腐だよ。お前、葉物が嫌いだよな」

「う…ほうれんそう、嫌い」

「無理に食うことないさ、好きなものを、好きなだけ食うのが、正しいメシだ」

 ひどく空腹だった。挨拶もそこそこに箸を持ち、取り皿に分けられるはしからたいらげた。目前の男もうまそうに食事を進めているせいで、質問に答える義務はなく、また沈黙に耐える服務もなく、気兼ねなく食べた。

「きれいに使う。さすがだ」

「なに、が?」

「箸の使い方がいい、と言ったのさ。だいたいにおいて、賢い証だよ」

 思いがけない言葉に、顔がほてった。食べることだけに邁進していた姿を、実はつぶさに観察されていたのだと、恥ずかしい気分になった。

「あの、あ…りがとう、ございます」

「うん、本当のことだよ」

 褒められた右手を見た。既視感が追いつかないのは、もはや考えないことにした。

「俺は……誰?」

「ミチオ」

「み……?」

 こともなく返された名に、戸惑った。本来の所持物には思えなかった。しかし、脳のどこかに、それを発声した記憶があるような気がした。

 そんなことを告げようとした口先に、柔らかそうな鶏の身が差し出された。こぼれてしまう、と思った瞬間には、舌の上に受け取っていた。噛まずともほぐれる中に、生姜が香った。熱いからこそうまいものを、痛覚から外すぎりぎりの温度なのだろう。

「おいしい、すごく」

 目前の男は満足気にうなずいて、同じものを口に運んでいる。

「ミチオはね、道路の真ん中、という意味だそうだよ」

「……道路の?」

「いや、道路というのは違うかな」

 自問自答に笑うのを見たら、もう一口、同じ味を運ばれた。この美味の前では疑問もほっと霞んでいく。

「道というのは、仏道とか道徳とかのほうだろうね」

 分かるかい、と寄越された視線は、その先を知る権利を知らしめるものでもあった。

 最初に、何でも答えると言ったんだ。

 ならば、何でも聞いていいんだ。

「その前に、あの、……トイレは、どこですか」


 右の突き当たり。

 行き先を復唱しながら後ろ手に襖を閉めてしまうと、地下牢に続くような窓のない廊下が伸びていた。板張りの床も、壁も、全てが黒い。見える限り三つのランプが、それぞれの明度を辛うじて繋ぐ距離に点々と置かれている。足元を確実に照らす代わりに、天井の在り処をひどくおぼろげにしていた。

「あった」

 言われた通り、ドアがあった。金属のノブに手をかけ、迷いなく引いた。

 すると、思いがけない明るさが飛び出してきた。ここまでの闇のせいで、目が開けられないほどだった。誰かが、明かりを消し忘れたのだろうか。まぶたをこすり、しばし慣れるのを待った。

 が、慣れてなお、再び目をこする羽目になった。

「う、は?」

 そこは、見晴らしのいい山の中腹。

「ごめん、ここはいつでも明るいんだ」

 咄嗟に振り返って、その声の主を見た。ドアなどなく、落ち葉の斜面と木ばかり。そして、金色の髪の、

「……どっかの、プリンセス?」

 思わず呟いた単語に、相手はつかつかと歩み寄って来た。両腕を掴んで鼻先同士が触れる直前まで寄り、

「違うよバカ。まず、名乗れよ、お前」

 深い緑色を基調に、襟元だけは白く、引きずるくらいに長いのはスカートだと思うし、ティアラも装着している。が、それ以上の装飾も化粧っ気もない上に、違うと発した声は高いが少々男性的だ。そんな全てが融和して、きらきらとした相手だった。

「道央、です」

「へーえ、名前もらったの。よかったじゃん」

 屈託なく笑ってみせたあと、短く、唇を頬に押しつけた。そして、するりと離れたかと思うと、弾むゴム鞠のように周囲を走り回り、踊り、またすり寄って手を取った。

「ほらお前、背、伸びただろ」

「え……ほんとだ。てか、着物じゃない」

 黒いはずの胸元を探った目は、顎を取られて上へと促された。どこまでも水色に広がる。

「だってここは、秋だからな」

 ほら、と指さす方角には、どこまでも連なる山の輪郭と、空から区切られた側に赤や黄色の鱗模様が見えた。紅葉だ。

 白衣の下は白いワイシャツで、ネクタイはなく。紺色のスラックスをはいている。着馴染んだ感触はある。ポケットは全て空であるが、位置に迷わない手を過信して、自らの持ち物と認識した。

「あなたは……秋?」

「そうだよ」

「さっきまで冬にいたんだ。戻ることは、出来ないか?」

「出来ないよ。知ってるくせに」

 髪をなびかせて、笑っている。スカートの裾を蹴りあげるようにどんどん先を行き、振り返っては早く来いと言う。こちらは革靴で、息も切れてきたというのに。

「待って、どこまで登る気?」

「もうちょっとだよ、ほんとに、あとちょっと」

 細く開かれた一本の山道は、一定距離に露出した木の根が連続して、上り階段となっているようだった。あるいは、自然淘汰された末の姿であるのかもしれない。降り積もって柔らかな感触を提供してくれるたくさんの落ち葉が、傾斜の険しさを幾分隠している。何より空気がいい。凛と澄んで、呼吸が上がるほどに、肺の中へ滋養が満ちる。一足ごとに山の懐へ深く抱かれているのだと思えた。

「着いたよ、ほら」

 手を引かれて最後の急勾配を越えると、尖ったペン先に立つような終着ではなく、赤い葉が縁取る谷間の静かな水面が眼下に広がった。

「きれいだ……これは、湖?」

「かなり標高が高いからね、常時この姿で存在するものじゃない。湖に見えるなら、お前はラッキーだな」

 空が映り込むせいで、青い。そこに葉が落ちるせいで、ビビットな水玉模様になっている。風が運ぶのか、ふらりふらりと遊んで、微かな紋を描いている。

「あれは、もうすぐ凍るんだ」

「秋なのに?」

「僕は秋だけど、こうやって、しょっちゅう冬のそばにいる。だって、秋の終わりと、冬の始まりってのは、たぶんどの境目よりも曖昧だと思うんだ」

 思慮深いというよりは、感覚的な物言いに聞こえた。もしくは、それ以外を知らないような。

「俺も、秋は好きだ、とても」

 この場を肯定するための言葉として、簡潔に伝えたつもりだった。でも、冬に対して礼のひとつも言えずにここにいることが、小さな痛みのように、心に立った。

 それでも、深緑のドレスはにこにこしている。それが見下ろせる身長であると、初めて気づいた。

「そうだろうな。僕の中で交わった時は嬉しかったもんな。やっぱそうだろ、って思ったな」

 にひひ、と笑って、乱暴に背中を叩かれる。

「交わった……って」

「なんだよ、まだ名乗れてないのかよ」

 謗る口調で近づいたかと思ったら、両手を首に回してきた。

「あのお屋敷は目が多い。そうでなくても、お前はこのナリだ。ご婦人方が黙っているわけがない、そうだろ?」

 ゆっくり、唇が合わさった。温かく、甘く、香りさえあった。まるで好みのワインが全ての神経を駆けぬけるような、それに抗する術など持たないと知っての、狡猾な攻勢だった。

 それなら、と抱きしめた。細い肩を折らないように、しかし加減する余裕なんて、最初だけなのだ。

 そうだ。

 あの屋敷の離れだ。長患いのため、隔離されていた。

 そこから、一度だけ連れ出した。

「だって、訪ねて行ったところで何も出来ない。脈を取ると言って手を握るくらいだ。俺は、いつだって」

「一生そばにいるって言って、彼のために医者になったよな」

「なったら逆に、抱くのが怖くなった。俺が、あいつの心臓を止めてしまうんじゃないかと」

「お前が言うか、フルコースだったじゃないか。夜長っていうのを、最大限に活用していただろうが」

「……よくご存知で」

 もう一度、穏やかに口づけた。目を閉じたのはほんの一瞬だったけれど、もう眩しいほどの明るさは、次に訪れなかった。

「秋は、嬉しかったのだ。そう、二回言ってもいいくらいにはな」

 近くに笑ったその気配すら、愛おしく思った。


 じきに凍るという湖に背を向けて下山するルートは正しいはずだ。現に、標高が作用する温度差をはるかに越えて、一面黄色の砂地の向こうには陽炎、もしくは独自の目眩だと思う。

 灼熱の往来の上、息をするのも苦難だ。脱ぎ捨てた白衣ももはや見えない。進むことだけが許されているのは救いのようであり、下落のようでもあった。

「まるで、人生そのものだ」

 そう耳に聞かせる声にも、潤いはなくなった。

 鳥の声もなく、虫の一匹も見かけない。植物すら干からび、影を落とすのはこの身ひとつというわけだ。

 憔悴を自覚した膝が折れ、両手を着く。熱された地に汗が降り、瞬時に蒸発して消える。

 そのまま、僅かな体力の戻りを待って、何度か深呼吸。ここまでの道程を思い起こした。

 冬、秋……名乗れ、と。

 共通した問いが、最初にあった。

「そうか、我が名は」

 顔を上げ、ありったけの声で張り上げた。

「夏の神よ!! 我が名は!!」

 もう一息を吸った刹那、

「よう来られたの、ぬし」

 思いがけず、背後からの応答であった。低い。威厳ではなく、衰弱を感じさせるほどだ。

 しかし、振り返った場所にいたのは、古びた黒い立像だった。

「あなたが」

 じりじりと焦がされる長身を、真下から見た。足裏に踏みしめる二鬼、鉾と太刀を手に、こちらを睨みつける強い眼球。偉大な太陽神を警護するために異国の戦士の姿を借りたと伝わる、道の神である。

「あなたが、夏……」

「よう来られた」

 かすれた声が繰り返した後は、耳鳴りを招くような静寂の中に落ちた。視線は、すでに遠方に向いていた。それは炎天にあってなお、美しい立ち姿であった。

 金鎖甲をまとう武装像ゆえ、宝冠、胸甲、全てが剛健な装飾であり、同時に、時間の作用を受けた木肌をまだらに晒している。しかし、頭上の焔だけは鮮やかに赤かった。本来なら拡散するベクトルを、無理矢理凝縮させてここに在るのだろう。その容姿に注がれる意志と、対峙を望んでの出現を信じ、宣言した。

「桂木道央(かつらぎ・みちお)を取り戻すために参りました。どうぞ、知恵をお授け下さい」

 見上げれば、戦士の口元には歯列が覗く。笑みではなく、正しく憤怒の表情だ。

「道央は……彼とは、母親同士が姉妹です。桂木の家は老舗の呉服屋、わたしの父は銀行員です」

 聞いていなくても構わないと思った。立ち上がり、なお上方にある怒りの顔に向かって、続けた。

「銀行員というものは、ひとつの土地に長くおりません。出世のたびに転居を繰り返します。そんな中には、信頼できない教育環境もあったようで、心配した母が、わたしだけ、都心の桂木の家に厄介になることを提案しました。同時に、通学などは諦めたという病弱な従兄弟の勉強を見てやる約束となりました。それが、二歳年下の道央です」

 彼は、文学が好きだった。

 布団の周囲には必ず、本の山が多数築かれていて、小柄な体を多い尽くさんばかりであった。

 英語の基礎を教えてやると、見る間に上級者になった。呉服屋で、外国からの客に困ったという話を聞くや、商品の案内を英語ですらすらと書いて、これを店に置けばと桂木の家人を驚かせたこともあった。彼は、自慢の友人であり、生涯庇護したい弟であった。

「わたしは希望通り医学者になりました。道央の病を治してやりたい一心で、心臓疾患の専門家に弟子入りしました」

 住まいは離れた。それでも、時間が許す限り手紙とともに洋書を送り、月に一度の休みには顔を見に行った。下手な励ましは控え、少しでも彼を楽しませようと多様な話題を仕込んだ。

「しかし、彼の病状は確実に進行しました。会いに行っても起きあがれないほどに痩せて、そんな姿を見るのが何より辛かった」

 情熱だけでは救えない。その事実こそが唯一の真実で、生命が果てる理由はシンプルに訪れる。人為の限界を感じることは、自らの立ち位置を見失うことに等しかった。

「そして一昨日、桂木の母から手紙が届きました。ひと月も前から、道央が消えているというのです。もう一人で動くことは出来ないはずだと書いてありました。そこにもう一通同封されていたのが、わたし宛ての不思議な手紙でした。読み差しの本から発見されたというそれは、確かに道央の文字でありました。家人により封が開けられていましたが、その内容から彼の消息を追うには」

 ふと、空を仰いだ。

 風が一筋、流れてきた。

 立像の後ろから、黒髪の人物がひょいと出たのも、同時だった。突然の介入を詫びるかのように一礼し、黒和装で袴、精悍という言葉そのままの青年であった。

「雨乞いの柱になる、と書かれていましたか」

 要点のみを引き継いで、また一礼した。

「はい、先月まで、百年に一度の大干ばつで国内に甚大な被害が出ました。そんなニュースに心を痛めたというのは、本当に彼らしいと思います。しかし、柱とは」

「施術したということですよ。現に雨、降ってるでしょ。で、こっちに取り込まれた。誰の手引きかは、もうお分かりですね」

 青年は像を振り返り、黒い額に手刀を浴びせている。背伸びする後ろ姿が微笑ましいと思った、その次の瞬間には、銀髪の大男がうなだれて立っていた。ジーパンをはいて、上は裸であるから、露呈するその筋骨量は間違いなく戦闘用。

「これが夏です。セルフお仕置き中だったのですが、僕の権限で解きました」

「セルフ、ってなんですか」

「道央からの召還にほいほい乗って、雨乞いしたんです。夏のくせに、こいつ暑いの苦手なんです」

 からかわれているかのような言われ様にも、大男はシクシクと泣き出した。

「雨乞いに魂一個関われば、それを止めるにも魂一個必要です。死に際の道央は、あなたを犠牲にする術に落ちた。夏は責任を感じているのです。当然ですが」

 嗚咽する方に目配せし、直接話しなさい、と促した。しかし、大きな背を丸めて首を振るばかり。この純粋な慚愧を尊ばなければと、丁重にこちらからの言葉を継いだ。

「彼からの手紙には、もうあの部屋には来るなとありました。でも、いても立ってもいられずに、そのまま列車に飛び乗りました。桂木の家人は、深夜に駆けつけたわたしを歓迎してくれた。そして、全くの手つかずだという離れの部屋に通してくれました。今思えば、あれはすでに結界の中だったのですね。彼の布団なんかなく、二人分の祝宴が用意してあった」

 大男のつま先から膝が、また黒くなり始めていた。聞きたいことはまだまだあるが、この委縮は、彼の隣の人物に対するものなのかもしれないと思ったら、早々に解放してやりたくもなる。

「そう言えば、なぜ夏だったのですか」

「基本的に人は、生まれ月が守護です。あなたにとって冬は、母御。そこに留まらず進むのが、あなたの生き方」

 権限のある人物が端的に解釈し、なるほどと納得した。

「で、あなたが春」

「はい。この摂理は僕の範疇でね。んでは、どーぞ」

 春が、手のひらをこちらに向けた。固まる寸前の夏も、注視している。

 俺は胸を張り、応えた。

「我が名は、神之門征太郎(かみのかど・せいたろう)。桂木道央は、我が幸いなり」

 かちり、と最後の歯車が噛んだ。


「征ちゃん」

 肩を揺すられた。目を開けると、真上から覗き込んだ顔があった。

「……お、道央、元気そうだ」

「なんで僕、緑のドレス?」

「ああ、道央の写真を持ち歩くために、雑誌の切り抜きと合成していたのさ。西洋画の女の子の顔の部分に、お前の写真をうまいこと貼り付けたんだ。地元に残してきた彼女だと言えば、学友全員が羨んだものだよ」

 起き上がり、たっぷりと互いを見比べた。老舗の呉服屋が用意する上質な長着も、深緑のスカートも、さほど変わらない気がした。

「もう、ずっと一緒だな」

「僕は謝らないよ。征ちゃんが望んでくれたんだから。来るなって言っても、来たんだから」

 暴言じみた口をききながら、まるで守護そっくりに涙ぐむ。なんて愛おしい魂だろう。

「そう、俺が望んだ。それだけさ」

 抱きしめ、髪をなでた。

 唯一のものが手に入った。

 道央以外を救う医療の道に、もう未練などない。

「この部屋が僕たちの社になるけど、でも夏さんが泣くから、母さんたちはたまに、ここに入れてあげようね」

 道央が、縁側の向こうに目をやる。

 朝日が、新しい世界を始めている。

「ほら、雨が止むよ」

 終  



I 幸いを待つ