F ラブ・ドロッパー

再応
叶 逢樹

「日本人ってすごいよね」

 雨上がりの水溜りを避けながら、アレックスは隣で微笑んだ。

「八百万の神なんてものを考えつくなんて、本当に素敵な人達だと僕は思う」

 一緒に帰宅中でも、拓斗はコントロールとバランスを養うため、必ずサッカーボールを蹴り続けるのを止めない。小学生の頃からずっとこうして帰るのが当たり前だったからだ。それから十年ともなれば、足元を見なくても身体はもう無意識に動いているので、頭の中はちゃんと相手の会話が聞こえている。

「アレックスの国では、神様は一人っきりなんだもんな」

 上から下まで、どこを眺めても日本人ではない彼のことは、確かカナダから、親の都合もあって引っ越してきたのだと、春の転校時に自己紹介で聞いたような気がする。しかしもう数ヶ月が経った今も、アレックスの両親には会ったことがない。ふたりとも多忙で滅多に帰って来ないのだと、先日家まで遊びに行ったときはそう説明された。

「僕の国にも色々な種族、いや、人種が住み着いて長いからね。中には神様は何人もいる、って主張する仲間も沢山いる。でも、タクトの国のように、この世にあるあらゆるもの全てに、ひとつずつ、ちゃんと魂がこもっているなんて信じている人々は、きっと多くはないはずだよ」

 アレックスは母から教わったという美しい日本語で流暢に拓斗に話しかけた。ちなみに父親が彼にくれたのはブルーグレイの瞳と銀色に近い金髪、そしてモデルのようにすらりと伸びた長身だそうだ。

 髪は日に焼けた茶髪混じりで、瞳の色も黒というより明るいブラウンに近い拓斗はとくに背が低いほうではなかったが、それでも彼と並ぶと頭ひとつ分は差ができた。まあ仕方ない、所詮日本人の血なのだからとそれについては早々に諦めてはいるものの、これ以上身長差が開くのは嫌だなとこっそり思っている。

「そういや子供の頃、食後の茶碗に米粒が残ってるとばあちゃんに『お米には七人の神様が宿っているんだから、ひと粒ひと粒を大切に食べなさい』って教えられたけど、それが特に不思議にも思わなかったなあ」

「コメ一粒に、七人のサムライが!」

「いや、七人の神様だって。……何て名前の神様たちだったかは、覚えてないけど」

「サムライのような神様もいる?」

「もう侍忘れろよ」

「えーと、じゃあ、一粒しかない米粒の表面に七人も神様がいたんじゃ、狭すぎる領土の取り合いにならないの? ……というか、一粒に七人ずつ神様が存在するのなら、この国には八百万どころじゃないくらい神様がたくさんいることになるね」

「そういう考えでいくと……飯茶碗一杯分びっしりに蠢くものを想像したら……気持ち悪くなってきた」

「増殖系で連想するなら頭の中に、人類が滅亡しようとも繁殖し続けるらしい英名C、和名Gで始まる虫が浮かんだりしない?」

「言うなよ! あえてスルーするつもりだったのに!」

 拓斗がぞわぞわと背筋を震わせているのを見て、アレックスは笑いながら言葉を続けた。

「まあ、とりあえず冒頭に話は戻すけど、この世のありとあらゆるものに命が宿るって考え方、僕は日本人のこういうセンスがすごく好きだ。だってさ、たとえばこの、足元に広がる水たまりは空からの訪問者で一杯で、次に、天からこの雨粒と一緒にもしかしたら、宇宙からはるばるやってきた、誰にも気づかれないくらいの些細な生命体がくっついてきたとしたら……、日本人なタクトはどう思うかな」

 アレックスがそう言いながら、指先を上空から徐々に降ろしてみせる。一緒に目で追いつつも、拓斗のボールはけして動きを止めない。

「しかもそいつがこの水たまりへ、ぼちゃんと落下したとする」

「知的生命体が?」

「そう。……で、そこへたまたま学校帰りの君がこうしてその水たまりを飛び越えていこうとしている。タクトは気づかないけど、宇宙から来た彼は水たまりの中からずっと上を見ているんだ。……でも」

 拓斗が立ち止まった目の前の水溜りを、じっとアレックスは眺めた。そこに何かいるのだろうかと、拓斗も真似をして覗き込んだが、通り雨が落としていった即席の小池には、ボウフラ一匹見当たらなかった。

「たまたま……そう、ある日何気なくタクトはそこを偶然見てしまって、水の中の彼と目があうんだよ」

 澄んだ水面に映る拓斗の瞳に向かって、アレックスは微笑んだ。

「でもそれって数ミクロンか、もっとちっちゃいやつなんだろ。……俺は何も見えるわけがない」

「それでも目と目があえばいいんだ。それが偶然ってやつの奇跡なんだから。……で、その瞬間、知的生命体の彼はなんと、タクトに一目惚れしちゃうんだよ」

「……え……」

 リフティング中だった足がさすがに止まり、呆然としたはずみから、思わず両手でサッカーボールを捕まえてしまった。

「目と目が合うだけで恋に落ちる、これが宇宙からきた、塵みたいなサイズの命にも起こりうるかもしれない。……そういう可能性なんかを考え始めると、日本人の想像力ってすごく豊かで面白いなって思うんだよね」

「……な、なんだか……突飛な発想だなあ」

 水たまりの中、相変わらず二人の目線は通じている。それが妙に今、くすぐったい気がした。

「僕のこの程度な妄想なんてたかが知れてるよ。それよりも昔ながらの日本人のほうがずっとファンタジックな考え方で生活していたんだなぁって思う」

 妙なことを話題にされたせいか、拓斗はなんとなく頬が熱かった。初な反応をしている自分が嫌で、水溜りから視線をわざとはずしてみせる。

「……ところで、なんで知的生命体の三人称が『彼』なんだ。『彼女』だっていいじゃん」

 話を逸らそうとして口にしたが、これまた思いがけない質問が来た。

「ところで……タクトは自分のルーツについて考えたことがある?」

「いきなり今度はなんの話だ」

「人間はそもそも、どこからどうやって今の人類になったのか」

「……サルから進化する前の話?」

「そういう説もあるね」

 数十秒、拓斗は思考を巡らせた。

「……胎児の頃の形態を思えば、それ以前は魚だったのかも」

 アレックスの声が短い笑いを含んで響いた。

「タクトは魚か。じゃあ君のご先祖は、海で暮らしていたかもしれない。……それも楽しいね。……ちなみに僕は、宇宙からきた」

 ブルーグレイの瞳が水面ではないところからこちらを見ているのに気づき、拓斗は思わず横に立っていた男を、なんとなく見返してみた。深い青と濃い影が混ざり合い、本当にアレックスの双眸には宇宙が存在するような色合いだった。

「俺は魚で、おまえは宇宙人なのか。論外に理不尽なヒエラルキーを感じるのは……まあいいけど」

「宇宙では僕には肉体がなかったから、地球に住むヒトのように発生したものではなかったと思う。たくさんの仲間と共に、きっと色々な場所へてんでんばらばらに散らばっていったんだ……僕らの遺伝子を、あちこちで残すために。そして僕は多分地球の引力に引き寄せられた」

 アレックスが空を見上げた。つられて拓斗も見た上空は雨上がりで、大気中の余計な埃が流れ落ち、どこまでも澄み渡っていた。

「僕もこうやって、ぼちゃんと落ちた。……水蒸気が冷え固まった、僅かな雨粒にくっついて」

 アレックスの声にまた力強い意思を感じ、視線を送ると、彼はもう、空も、水溜りも見てはいなかった。

「できたての水たまりの上を、誰かが通りすぎていった。たくさんの人達が次々に。……そんな中、立ち止まって僕を覗き込んだのは、タクト、君だけだった」

 アレックスの声は瞳の色と同じように、誰もが聞き惚れるような優しいテノールで説得力を感じさせるとは、常々思っていたことだ。その、周囲を魅了する音程が、今この瞬間も柔らかく響いた。

「君が気づかなくても、そこで目と目があった僕に、次の瞬間何が起こったと思う?」

 彼の言っている意味が、さすがに鈍い拓斗にも伝わる。青年の滑らかな頬はじわじわと赤く染まった。

「僕はその瞬間、漸く理解したんだ。……僕が何のためにここへ来たか、そしてここでどういう進化を遂げていけばいいのかを」

 穏やかな、いつもどおりの口調で静かに告げられ、拓斗は逆に閉口した。突然そんなことを告白されても、リアクションの方法がわからない。

「ただし……進化途中で気づいたんだけど、ここでは男女のつがいが繁殖の一般常識だったんだよ」

「……」

「……というわけで彼女にはなれなかったんだ、遺伝子の設計プログラム上の関係で、発生時にこっちを選んでしまったから。……でも世界的に見て同性婚は認められつつあるらしいし、男同士のパートナーでもそう問題ないと思うんだけど」

「……」

 アレックスが暴露したこれらは一体どう考え、どう答えるべきなんだろう。サッカーのことしか頭になかった高校生の自分にとって、急展開は重すぎる。

「ねえ、タクト」

 悪戯めいた瞳を輝かせ、アレックスは甘い声で囁いた。

「君が日本人で、本当によかった。……多分君は僕に、柔軟に対応できるはずだから」 

 確かに数ヶ月前の自分にとって、初対面のアレックスは特別な人間に感じた。なぜかはわからないが、初めて会った時から、不思議な懐かしさと親しみやすい感情を覚えた。きっとこの転校生とは仲良く出来ると確信していたら、アレックスの方から声を掛けてきたのだ。それから二人で事あるごとにつるんで遊んでいる。もう拓斗にとってアレックスという存在は、なくてはならない日常生活の一部になっている。

「……なんでおまえ、俺があっさりOKするものだと思い込んでんだよ」

 耳まで赤く染めながら、拓斗はぶっきらぼうに応えた。目を合わせることも出来ず、ふいと横を向いたままだったが、それでもアレックスは嬉しくて笑い出しそうになる。これは恥ずかしがっているときの拓斗の反応であって、嫌悪の類はみられなかったからだ。

「友達としてはもちろん僕は合格だよね。……それ以上のことも、これからはちょっとだけ考えてみてくれない?」

「……嫌だって言ったら?」

「じっくり時間をかけて、手を繋ぐところから慣れてもらおうと思ってる」

「……手ぇ?」

 なんだそれと拓斗が眉間に皺を刻むのと同時に片手をさり気無く取られ、びくっと両肩が痙攣した。かろうじてボールはもう片手で捕まえていたものの、アレックスは引き寄せた拓斗の手のひらに自分のそれを絡め合わせた。五指で互い違いになった指を握られてしまい、拓斗は指先が震えるのを止められなかった。それ程に予想外だった。この動悸の激しさは。

「……こういうの、嫌かな」

 アレックスが微笑んだまま拓斗に尋ねる。聞かれた内容についてどうしても答えなければならないらしいと思うと、緊張しきって唇まで震えてしまった。

「……まあ……これくらいなら……アリかも……」

「本当? ……ありがとう」

 再び意識的に掌に入れられた力がこちらに伝わり、拓斗はごくりと喉を鳴らし、こんなことでいちいち動揺している自分が情けないと思った。

 アレックスはもう地面へ目を向けず、そのまま拓斗をエスコートするように歩き始めた。これではもうリフティングすることはかなわない。昨日までなら文句を言っていただろうが、今の拓斗にできるのは、できるだけ握られた手の感触を意識しないようにすることだけだった。

 アレックスは拓斗に触れているぬくもりを楽しんだ。漸く捕まえた指と手のひらの熱を心地良く受け止める。とうとうここまでやってきた。しかしここからも、きっと自分は拓斗を失わずに生きていけるだろうと確信していた。なぜならば、彼はまだ小学生だった拓斗のことを今でも鮮明に思い出せた。彼は幼く、今より背もずっと低くて、それだから雨上がりの空よりも、目の前に続く、アスファルトの濡れた道筋のほうが彼にとってはずっと身近だった。拓斗はそこで足元にあった小さな水溜りの中に何か、きらりと光るものに気づき、目をこらしながら指先をそっと水面に押し当ててきた。その瞬間、膨大な彼の遺伝子情報の全てが水という媒介を通してこちらに流れこんできた。彼が持っている『生命の設計図』を一瞬で写しとった自分は、その幼い記憶領域から、彼にとって最も魅力的な存在をピックアップした。それは当時カナダチームで活躍していた若きエースストライカーで、ブルーグレイの瞳とシルバーブロンドの男だった。本人の遺伝子情報を複製したわけではないので、完璧に同じ外見になることはできなかったが、それでも当時、その選手の熱狂的なファンだったために、部屋中に彼のポスターを貼りつけていた拓斗にとって、アレックスの現在の外見は、今でもきっと魅力的に感じずにはいられないはずだ。これからは接触するごとに、彼の現在の嗜好にこの身をどこまでも合わせることができる。今以上に拓斗の望む理想へと近づけるだろう。

 あれから十年をかけ、人類の進化の過程を倍速で辿って漸く拓斗の前に立つことができた。もう逃がすものか。彼とは初めて会った瞬間から、抗えぬ運命で繋がっているはずなのだから。そのためにこの星を選び、自らを、燃える大気の中へと落ちる苦しみに耐えたのだと思う。 

 希望に満ちた、たったひとしずくの愛だけを胸に抱いて。

END(11.07.22)  



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