R 蜘蛛の棲む家

金の針
MINOBU

とある避暑地の洋館で、ティーポット片手に三崎優人は止むことのない雨をまどから見つめる。

この洋館に身を寄せてから雨続きで、せっかく日本有数の避暑地に足を踏み入れたというのに一度も観光していなかった。

(アルバイトの身の上で贅沢なことは言えないけど)

せっかく入れた紅茶が冷めてしまうと、優人は慌ててティーポットをかぶせた。銀色に光る小型のワゴンに必要なものを乗せ、屋敷の奥へと進んでいく。

ウォールナットで作られた硬いドアを叩くと、中から低い男性の声で返事があった。

一言断ってドアを開けると、この屋敷の主である八剱は椅子に腰掛け外を見ていた。

「優人、見てごらん」

お茶の支度をしていた優人は顔を上げ、促されるままに外を見る。

客でも来たのかと目を凝らしたが、外の風景は降り注ぐ雨以外全く変化無い。

不思議そうにしている優人を笑い、八剱は窓のすぐ下にある芍薬を指さす。

牡丹の枝が接ぎ木された芍薬には重そうな蕾が付いていた。

「寒牡丹だよ。

あと半月もすれば咲くんじゃないかな」

「はぁ……」

気のない返事をしながら、優人は紅茶を注ぐ。

コポコポと音を立てて茶色い液体が流れ落ちた。

入ったばかりのアルバイトが心配することではないが、ここの経営は大丈夫なのだろうか。

優人がこの屋敷に来てから一週間が経つが、未だに一度も客の姿を見ていなかった。

(シーズンオフだし、こんなものなのか?)

そう、今は10月の後半。

すでに避暑地はその役割を終え、優人がこの屋敷に来るまでに通った駅や観光地はどこかひっそりとしていた。

その上、この屋敷では料理は通いの料理人が用意してくれているし、優人の仕事と言えば簡単な掃除と紅茶を入れることぐらい。

といってもさぼっている訳では無い。

優人は数日前、屋敷の大掃除を申し出て却下されていた。

(天井が高いから、取り切れない蜘蛛の巣が気になるのに……)

アルバイトをするのは初めてだが、これが普通なのだろうか。

そもそもこのような住み込みのリゾートバイトで、こんな時期に人を募集していること自体おかしいとは思ったが。

……もっとも、今の優人にとってはその募集は非常に有り難かった。

八剱に勧められるまま、アンティークのような椅子に腰掛けた優人は紅茶の相伴に預かる。

静かな屋敷の主との間には会話もなく、なんとはなしに牡丹のつぼみを見た優人は家に大きな牡丹の樹木があったことを思い出した。






優人の、三崎という家はなかなかの資産家だったらしい。

というのも、優人が物心つく頃には両親が他界し、後見人になった叔父夫婦の金遣いが荒かったせいで、どうにか残っているのは約200坪の敷地に立つ母屋と優人の住んでいた離れ、そしてそれを囲む鬱蒼とした木の生えた庭、それで全てだ。

父母が当主を務めていた頃にあったというアパートやマンション、美術品などはいつの間にか消えていた。

数週間前、その、唯一の血縁でもあった叔父と叔母が交通事故で亡くなった。

初七日を終え、かつて三崎の財産管理をしていた、という弁護士に色々な手続きを頼んだ、その時に色々なことが判明したのだ。

叔父と叔母は、自宅以外の動産も不動産もすべて売り払っており、どこへやったのか現金もそれほど残っていなかった。

自宅の資産価値はかなりのもので切り売りすれば優人の生活は保障されただろうが、愛着のある家を手放す踏ん切りは付かない。

弁護士に、数ヶ月後に手に入る叔父と叔母の生命保険を使えばどうにか自宅を売ることなく生活ができそうだと知り、優人は一も二もなく飛びついた。

問題は、保険金が下りる数ヶ月間をどうやって乗り越えるかだ。

家は人が住むだけで金がかかる。

家に残っていた現金も香典もほぼ全て葬式の支払いに充ててしまっており、今まで見たことの無かった通帳の中身を見ると残金は10万を切っていた。

今までどうやって生活してきたんだと訝しみながらも、優人は友人に勧められた住み込みのアルバイトを始め現在に至る。






(最近は見ていなかったけれど、離れの近くにある蜜柑の木に囲まれた場所に牡丹が植わっていた)

蜜柑の木というのは害虫が付きやすい。

なぜそんなところに育てるのが難しい牡丹を植えたのかと今更不思議に思いながらも、家にあるその牡丹の様子を思い出した。

木に囲まれているせいで薄暗く、色々な木の葉や枯れ草の折り重なった地面の上で、牡丹は紅色の大輪の花を咲かせていた。

隠れ家やなんかを作るのが好きだった幼い頃、木に囲まれて閉鎖されたその空間興に在る牡丹を自分だけの宝物のように感じていた。

軒の下に生えた牡丹は家にあるものより小振りではあったが、その色合いといい、雨に閉じ込められた風情と良い、実家にあるものとよく似ている。

雇い主が目の前にいることも忘れ、ぼんやりとしていた優人の耳に、玄関に置かれた巨大なホールクロックの時を告げる音が届いた。

「ああ、もうこんな時間か。

夕飯の準備ができている頃だ」

八剱に声をかけられ、優人はすでに辺りが夕時に差し掛かっていることに気づく。

慌てて立ち上がろうとした優人は、手にしていたティーカップを落としてしまった。

「す、済みません!」

反射的にその破片に手を伸ばす。

慌てていたせいか、優人はその欠片で手を切ってしまった。

「ああ、いいよ。

他のにやらせるから」

八剱は見るからに高価なティーカップを壊されたというのに、責めるそぶりもなく優人に近づく。

そしておもむろに血の滲む手を取り、そのまま優雅な仕草でその指先に口づけた。

「・・・っ!」

驚く優人が手を引く前に、八剱はその傷口に歯を軽く当てた。

じわり、と何かがしみこむように優人の体に流れ込む。

「さ、食堂へ行こう。

早く行かないと冷めてしまうよ」


それが当然というようにエスコートする八剱に、なぜか優人は素直に頷いていた。






朝起きて、屋敷の掃除を済ませ、八剱の身の回りの世話をする。

優人は毎日この生活の繰り返しをしていた。

あまりに単調な生活リズムのため、頭が考えることを放棄してしまいそうだ。

降り続く霧雨のせいか客はまだ、一人も来ていなかった。

そんな生活の中で八剱はじわじわと優人に近づいてきた。

肩や体への軽いスキンシップが目立つようになり、それがいつの間にかキスへと発展する。

なぜだか優人にはそれが自然なことに思えたし、嫌悪感も沸かない。

少しだけ嫌だったのは、折に触れ八剱がその尖った牙で優人に噛みついてくること。

(牙?)

ぼんやりと八剱に促され、ベッドへ腰掛けた優人は、自分に被さる相手の顔を見る。

人に牙が生えているなんておかしい。

では、目の前のこれはなんなのだろうか。

どうにも、ここに来てしばらくたってから、優人の思考は判然としなくなった。

目を開き、相手の顔を見る。

まるで、どこかの映画から抜け出したような落ち着いた風情の美丈夫だった八剱の口からは、あごに届くほどの赤く長い牙が生えていた。

(……人の目は、2つのはずだ)

ぼんやりと見上げた先では、8つの目が優人を見下ろしている。

(いや、8つだったか……)

頭が働かない。

最近の優人はずっとそうだ。

何もかもが夢の中の出来事のように霞がかっていた。

何事かを考えようとする優人の首筋に顔を沈め、八剱がその首筋に噛みつく。

あの、ちりっとした痛みが優人を襲い、ただでさえ霞がかっていた思考はさらにおぼろになった。

「優人、私のことだけ考えて……」

低く、みぞおちに響く声で八剱に話しかけられた優人は考えることを放棄した。

カサカサと、動く黒く長い手足が、器用に優人の体に絡みつく。

……優人はもう、何も疑問を持たなかった。






外は相変わらずの雨だ。

八剱は今日の食事について料理人に話が有るらしく、キッチンへ行っている。

ベッドに腰掛けたまま、優人は一人窓の外を眺めていた。

ふと、満開となった牡丹の花が優人の目に止まる。

小さな蕾だった花がもう咲いたのか、と吸い寄せられるように優人は窓に近づいた。

幾重にも重なる薄紅色の花が、降り続く雨にしなることなく咲いている。

まるで、そうしなければいけないような強迫観念に取りつかれ、優人は窓を開きその花弁へ手を伸ばした。

「坊や、お逃げ」

花弁に触れた瞬間に、優人の耳にたおやかな女の声が耳に届く。

いつの間にそこにいたのだろう、牡丹の横に見事な猩々緋の着物を纏った女が凜とした姿勢で立っていた。

突然の女の出現に驚く優人の手に、女はしっとりとした所作で自分のそれを重ねる。

「さ、早くおし。

雨を抜ければ、現へ戻れますから」

つるりとした手が触れた瞬間、優人の思考がクリアになる。

「……っ!」

思い起こされる八剱との情事とその姿に、背筋をぞっと冷たいものが這う。

自分の体を抱き、崩れ落ちそうになった優人を女は叱り飛ばす。

「急ぎなさい。

屋敷からでれば、あれはすぐに気づくはず。

走って、雨を抜けなさい」

女に支えられるように窓から外へ出た優人は、反射的に女の素性を尋ねた。

「わたくしは三崎の家守、牡丹の化身。

とにかく急いで……」

それだけ言うと、目の前の女は消えてしまった。

先ほどまで満開だった牡丹の花もしおれ、見る間に黒ずんでいく。

あり得ない現象に再び震える体をかき抱き、優人は遮二無二走り出した。

森に囲まれた屋敷は少し先にゆくとあっという間にその姿が見えなくなる。

裸足で飛び出した優人だったが足下に雑草が生えているため、それほど走りづらくはなかった。

降り続ける雨も細かい霧のようなものなので苦にはならない。

ただ、忘れ去られたように木と木の間に張られた蜘蛛の糸が体に絡みつくのが不快だったが、そんなことを言っていられる状況ではなかった。

牡丹の化身だと言った女に、それほど嫌悪は覚えなかったが、思い起こされる八剱の人ならざる姿が恐ろしい。

口から覗く赤い牙、のっぺりとした顔に張り付いた8つの目、細長く黒い8本の足。

明らかに人ではないその姿に、なぜ今まで体を預けて居られたのだろうか。

と、その時、優人の目に乾いた大地が映った。

どういうことだろう、細かい霧のような雨だというのに、夕立のように晴れと雨が目の前で分かれている。

牡丹の化身だと名乗った女の言葉に従うのであれば、とにかくあそこまで行けば良いはずだ。

だが、優人が近づけば近づいただけ明るい空間は遠のいていく。

それでもあきらめずに走り続けると、優人の体はゆっくりと、しかし確実に明るい場所へ吸い寄せられていった。

(もう少し、もう少しで……!)

息を切らしてその明るい場所へ足を踏み入れようとしたその時。

「優人、そろそろお茶の時間だよ」

耳元に、あの低く響く声が聞こえた。

ぞわり、と背筋があわだつ間も与えられず、唐突に優人の体が後ろへ引かれる。

「う、うあぁ!」

ほどなくして、優人の体はハンモックに押しつけられたような、不思議な衝撃を受けた。

突然の事に硬く目を閉じていた優人が辺りの様子を確かめようと動かす。

森の木に囲まれる中、白い蜘蛛の巣が優人の体を覆っていた。

「全く、あの牡丹はどこまでも私の邪魔をする。

家の外であればと放置していた私も悪が、忌々しい」

そう独りごちながら、八剱はゆっくりとこちらへ近づいてくる。

最初にあった時と同じように優雅といっても違和感のない姿であったが、その本性を知ってしまった優人にはただただ恐ろしかった。

「早く帰ろう、濡れてしまうよ」

間近に迫った八剱はその手で優人の頬に触れる。

なぜだか無機物に撫でられているような感触がして、全身に鳥肌が立つ。

「あ、あんた、なんなんだ!?」

恐怖を振り払うように大声を出した優人に、八剱は優しく微笑んだ。

「教えても、どうせ忘れてしまう。

君は何も考えずただ屋敷で過ごせばいい」

どこまでも穏やかな声でそう言った八剱の歯がみるみる伸び、見事な牙となる。

ひっ、と息をのんだ優人の首筋へと顔を埋め、そっとその牙を突き立てた。

すでに慣れた鈍い痛みが優人を包む。

「大丈夫。

優人は本当に美味しそうだけど、絶対に食べないよ。

大切にするから、安心して」


目の前で、見る間に姿を現す巨大な蜘蛛。

はっきりとした意識の中で優人が最後に知覚したのは見るもおぞましいその姿だった。






「優人、そろそろ食事の時間だ」

巨大な蜘蛛にのしかかられ、しかし優人はそのことに疑問を持たなかった。

どこまでも優しい恋人は、時折優人のことを食べたそうに見つめるけど、決してそれを行動に移すことはないと知っているから。

腰がだるくて動くのも面倒な優人は、ベッドの隣で様子をうかがう恋人の体の上にしなだれかかる。

巨大な蜘蛛の腹は長い毛に覆われていて、昆虫独特のつるりとした感触で、とても触り心地が良いのだ。

無言でその腰にぎゅっと抱きつくと、恋人はくすりと笑う。

「仕方ないね、優人は甘えん坊だ」

嫌な顔一つせず、恋人は背中に優人を乗せたまま動き出す。

(そういえば……)

ぼんやりと霞がかったままの頭で優人は考える。

(庭に、綺麗な牡丹があった気がするけど)

窓の外をちらりと見るが、その先にあるのはいつまでも降り続ける霧雨としっとりと濡れた木々だけだった。

(あれはそう、家にあった牡丹と似ていた)

なぜだか、虚ろな思考しかできない頭が鮮明に家の映像を作り出す。

そして唐突に、両親が居た頃、物心つく前の情景を思い出した。

あれはそう、夏の暑い日に庭家族みんなで庭を整えていた時の事だ。

ようやく歩けるようになった優人は母の足下で、手伝いにもならないような手伝いをしていた。

母は丁度あの牡丹の辺りの草刈りをしていて、突然大きな叫び声を上げたのだ。

牡丹の木の根に見たこともないような巨大な蜘蛛が居て、気味悪がった母は退治してもらおうと優人を残して父を呼びに行った。

物心つくか付かないかの年頃だった優人は、昆虫に対する嫌悪感もなく、はじめて見るその生き物を手に乗せ、そっと家の外へ逃がしてやった。

(そうだ、動物にはやさしくしなさいって、母さんが言っていたから)

あのとき手に乗せた蜘蛛と自分の恋人の姿が似ていることに気づいた優人は、なんだかそれがおかしくてクスクスと笑う。

「どうかしたのかい?」

不思議そうに尋ねる恋人の首へと手を回し、顔中にびっしりと並ぶ8つの目をよけて唇を落とす。

「ううん、なんでもない。

あなたに似た人の事を思い出したんだ」

「ふうん?」

不思議そうに首をかしげた恋人は、お返しにと優人の首筋へ牙を落とした。

その痛みに身を震わせた優人は、どこか虚ろな目で恋人に縋り付く。

そのまま何回かキスを繰り返し、少し荒くなった息で優人は不思議そうに首をかしげる。

「……あれ?

何かを思い出した気がするんだけど」

「忘れてしまうようなことなら、大したことではないよ」

それもそうか、と頷いた優人はその体を心地よさそうに巨大な蜘蛛に預けた。





かつて賑わっていた日本有数の避暑地。

現在も未だ、その役割を終えたわけではないが、二三十年前ほど前の活気はすでに無い。

避暑地の奥まで行くとうち捨てられた別荘が点在しているそうだ。



R 蜘蛛の棲む家