N 蝸牛のぜんまい
ぴと、ぱた、はら、ぱたり。
そうして音の葬列は詩篇もなく何処までも絶望的に響いていた。
否、いた、というのは可笑しい表現である。永劫に響き渡るその音は正常だと安易に解る世界のぜんまいの可動音であるのに耳奥に湿気を喰って黴の様にへばりついていて少しばかり不快であった。
「やれやれ…これほど美しい象形は無いというのに、君の構造は驚くまでに酷く歪んでいるね」
丁度あめんぼ――この水面を歩くのに必要な雨具――を動かす足が疲れたので、惰性を滑っていると肩口から男の声がした。如何にも育ちのよさそうな品があり、同時に深みのある声だ。されど肩に変声期の、しかも成人男性を軽々と乗せるほど立派な体格を持ち合わせていない故、其処に居ることは不可能であった。代わりに肩を我が物顔で牛耳っているのは、渦を巻いた殻を背負った蝸牛であった。赤と白の極めて派手な軟体を持ち、突き出た瞳をうねうねと動かして緩慢に身を動かしている。
「それは悪かったな」
「悪くはないよ。ただ、荒んでいてとても危なっかしいと思っただけだよ」
蝸牛は偉そうに語るが別段不快ではなかった。寧ろすんなりと受け入れてしまっている自分が何処か正常な感覚を失っていると遠くの靄の掛かった情景を見る様に思った。
「ああそれと、君が今まさに足を振り下ろそうとしている水溜りは雨を吐くから避けないとまたひっくり返って存分に濡れてしまう事になるから気をつけ給え」
蝸牛はふわりとそう告げて、歩を誘導した。
丁度、通る処だった道筋は他とは違い穴でも掘った様に凹んでいて、なのにとてもとても淡い空の色をしている。蝸牛の預言に従う様にべこんと鈍った音がして、生来の型を取り戻す様に同時に膨れ上がった。激しく水柱が立ち上り雨よけのコートで顔を隠してもまた水滴が顔に未練がましく張り付いて、爪も立てられずに頬に向けて落ちていった。不愉快なむず痒さだけを残しているだけ爪を立てていたのかもしれない。
「いやー危ない危ない。下手をすれば死んでいたかもしれないね」
「本当に危なかったな。あんなの見たことないぞ」
「ん?稀にあるのだよ。そして、水柱の上がるその瞬間を捉えたくてわざわざこんな危険な水面の処までやってくるんだ。私には到底解りかねる事であるが」
惚けた様に告げる蝸牛に未だ反動で波打つ壌を慌てて蹴った。あめんぼが邪魔で仕方なかったが、此処ではこれがなければ生きていけない。遠くで先ほどよりは小さいけれど水柱が上がって足が竦みそうになった。
高床式の構造に則って築かれた家。ありとあらゆる処から紫陽花を忙しく生やした家が蝸牛の居住だ。まるで綿雨の様だと記憶で無い記録でそう思った。ここいらでも随分と大きい構えで、『武者小路 百日紅』と仰々しいまでに達筆な字体で記されていた。肩に乗った蝸牛を手すりに置いて、雨よけの外套を脱いで外に掛かったハンガーに掛ける。それから鍵を取り出して錠を回す。やわい何かを踏み潰す様な音を立てて傘を剥いて玄関に上がると漸く息を吐き出した。
「これではお使いひとつ頼めないじゃあないか。もう少ししっかり構えてくれ給えよ」
蝸牛は呆れた様にそっと繰り返して、自らは近くの紫陽花の葉を伝って何処かへと潜りこんでいった。
「俺は此処に来てまだそう日も経っていない。もう少しお手柔らかにだな…」
「若人は決まってそう甘え上手なんだ。これは君の為でもあるんだよ。ねえ、クス君」
「へいへい、武者小路先生は手厳しい事ですね」
蝸牛を運んでいた人間基い、クスは苔で構成されたソファにどかりと座った。このまま眠ってしまいたいくらいであるがそうでもすればまたあの蝸牛――否定するまでもなく武者小路百日紅そのものの小言の吹き矢が飛んでくる羽目になるだろう。それだけは避けたかったので、クスは黙秘して飲み込むことにした。
「ああそうだ。折角上質な殻を競り落としたんだ。また螺子を巻いておくれよ。そうでなければ世界は維持できない。君の様な体つきの持ち主はその為に要るんだから」
「へいへい」
紫陽花の葉から顔を出した武者小路は事も無げにそう告げて再び紫陽花に潜り込んでしまった。大方先にぜんまいの場所へ行くのだろう。どうあってもそれだけは歩幅のあるクスの方が先に辿り着くのだが、武者小路はそれが気に召さない様だ。
中二階にある古時計の様な佇まいのそれにはアンモナイトの様な巨大な殻がこれみよがしに埋まっていて振り子のある部分には代わりに蝸牛の殻がはめ込まれている。電子機器の様な盤面があり、複雑な軌跡が描かれていてその様が何処と無くプラネタリウムの様だ。
燐光を伴ってくるくると回転しているが、薄く動きの鈍っているものはもう寿命だ。
クスは首にぶら下がったぜんまいをその動きの鈍い殻の螺子に差し込んで回転しているのとは逆に巻いた。ぎ、ぎち、と油を失って滑らかで無くなった音が響き、そしてぜんまいを抜いたと同時にぽとりと落ちた。武者小路とは異なる何の変哲も無い普通の殻だったがかさかさとした手触りが違和感だけを残した。
それを懐にしまい、拾ったばかりの蝸牛の殻を取り出して差し込む。此処の蝸牛は始めからこうなる様に中心にぽっかりと穴が開いている。そのままはめ込んでぜんまいで回転さえ付けてしまえば後は簡単に動く。ぎっこんばったんと古びた音を立てて配列の道筋がより早くより明確に輝き始めた。アンモナイトの殻も順調に廻り始めて、同時に雨がまた生え踊る音が聞こえた。
「君の左耳の蝸牛もそろそろ交換時期だろう。それと換えるといい」
「…でもこれさっきまで使われていたのだし、もう限界そうだ」
「なに、まだ使えるさ。私が保証しよう。それくらいには良品なんだよ」
その思考の隙間を射る様に、紅白の蝸牛が手すりに身を乗せていた。なんとなく愛嬌があるその様はやはり先に見た大人しい殻のぜんまいより異質だった。そう言えば武者小路は大層立腹するので口にすることは無い。
思い返せば今日はやたらと右ばかりに武者小路がいたのを改めて思い出した。左が可笑しいと何処かで勘付かれたらしい。
「何処までも鋭いやつだな」
「君が上手に隠せていないだけだよ。それに君が私に隠し事なぞ早すぎるくらいだ」
武者小路は身を伸ばしてふんぞり返っている。いちいち偉そうなのだが、武者小路の言葉はとても明白なので何も言えない。それに殻のぜんまいに於ける武者小路の審美眼が何より信頼に至るとクスは知っていた。
クスは耳の付け根にあるジッパーを下ろす。丁度ミシンの内部にあるボビンの様に填まった殻を取り出せば、皹は入る直前と解るくらい白く濁り殻が薄くなっていた。代わりにぜんまいの役割を終えた殻を差し込めば、凝った音は浚われて、明瞭に世界の脈動をその手に収める事が再び可能になった。
「流石に良品だな。さっきより全然良く聞こえる」
「君に使われているぜんまいは包み隠さずいえば、とても粗悪品だからね。なんてことはない。少しずつ気長に悪くなった部分から変えていけばいいさ」
「ふうん…意外」
「何がだい」
「あんたの考え方だといっそ新しいのに変えてしまえと言いそうなのに」
「君に其処までの投資が出来るとは正直計り兼ねているからね。それに君の様な型は燃費が非常に悪いんだ」
「ならどうして俺なんかを飼ったんだ」
「なに、単純なる興味さ。前もその前も同じ型を飼っていたから惰性と言うのが的確なのかもしれない」
「…ふうん」
この雨ばかりの世界には蝸牛と他に幾ばくかの種類がいる様だが、クスはその初期情報を保有していなかった。
武者小路曰く、クスは蝸牛の前に世界を牛耳っていた生き物と同じ型をしているらしい。軟体でもない無駄に長い四肢に頭だけ必要以上に生えた毛髪。そして、生き物と異なるのは蝸牛のぜんまいがないと生きて行けないという事だった。
武者小路の暮らすこの規格の合わない家を見るとそうだった様にも思えた。だが、クスと同じ型のものは意外にも少ない。クスが目覚めて間もないのもあるかもしれないが、武者小路は短く、耐久性の問題としか答えなかった。
「それよりほら!主人に新鮮な水をおくれよ!乾いて仕方が無い」
「へいへい」
「君は水分を多量に摂取しなくても良いからっておざなりにしないでくれ給え。何の為に君を飼ったと思っているんだい!」
「あんまり捲し立てると余計に乾くぞ」
「……」
始まった小言の吹き矢に少しばかり隙間を入れてやれば、武者小路はクスの掌でぽとりと殻の内側に引っ込んでしまった。その様だけは何処か愛嬌があるのに、普段の不遜さが全てを崩しているとクスはふと思う。
台所には様々な色合いの瓶が置かれている。全て蝸牛の為に作られた水で食水と言う。、これを浴びるだけで蝸牛に必要な栄養が取れるらしい。武者小路は美水家で色々なところで精製された食水を取り寄せて揃えている。とはいえクスにはその違いは露ほども解らないので適当に青の瓶を取り出せば殻から違う、とくぐもった声音が返って来た。
「違うよ、琥珀のだ」
「琥珀?またか、最近好きだな…これも買い足せば良かったな」
「その食水を専門に扱う業者は次の満月にしか来ない。つまり、今日はいない」
武者小路が食事時に使う受け皿を取り出して、武者小路を皿に置いた。小さな如雨露に琥珀の瓶に入った食水を注いだ。もそもそと殻から軟体を這い出した。
如雨露を傾ければ、擬似雨の様に水が零れる。武者小路はべたりと軟体を皿にだらしなくへばりつかせて極楽だと、とっぷりと浸り濡れた声音で息を着いた。
「最近琥珀にご執心だな」
「そうかね…ううむ、そうなのかもしれない」
「変だな、武者小路は」
「もとよりへんてこな君には言われたくない」
「嘘で誤魔化せばいいのに。言いたくないなら尚の事」
「君に、嘘は付きたくなんだよ」
「…で、何で」
「………君の目の色に、そっくりだからさ」
それまで続いた会話を解体する様な沈黙だった。空白を丁度ばたらばたらと打つ雨が埋めてくれてそれだけが救いの様だった。
「…やっぱり変だな、武者小路先生は」
「うわっ、何ひっくり返しているんだい!如雨露にわざわざ入れているのに本末転倒じゃあないか!意味を返し給え!」
「いや、俺に言われてもだな…」
残りも少なくなりつつある上、勿体無いのでひっくり返すことにしたのだが、武者小路はお気に召さなかったらしく、ぐいぐいと身を乗り出している。
やはり武者小路は変わっていると思う。散々罵倒している割に嘘をつきたくないだの、先程の様な女に言うべきであろう甘言をさらりと吐く。種族も異なるが、性別としては同じだ。いいや、蝸牛は雌雄同体だから有りといえば有りなのか。
「それと紫陽花の霧吹きも欠かさずにやっておくれよ」
クスが悩んでいる内にいつの間にか皿から這い出した武者小路が現実に引き戻す様な小針をひとつ刺した。紫陽花の霧吹きがこれまた処狭しと咲いているので難儀なのだ。
「武者小路は、もう寝るのか」
「いいや、少しだけ設計をして眠るよ。君は霧吹きが終われば今日の仕事はおしまい」
武者小路の仕事は設計図を作る事と、極稀に発掘されるものの鑑定だそうだ。小難しいものはクスには解らないが、引く手数多で有名らしい。
「設計っていつも思うけれど、何を作るんだ」
「作るというよりは、正しく言うなれば道筋だよ。蝸牛のぜんまいでどれだけ効率よく世界を維持するか。それは私のライフワークでもあるのさ」
解ったかと言わんばかりに、武者小路は片目の生えた角をくいと曲げた。正直全然解らなかった。
極稀に発掘されるものの内には、クスの様な昔この世界にいた生き物の型を持つものが含まれている。鑑定云々という職がある様に、クスが必死で渡ってきた水面の底には様々な前の遺産が沈んでいるらしい。
何もかもを作り変え、時に壊し、全てが水の泡になる前にさっさと外へ行ってしまった。もう戻る事は無いだろう、例えば、うまく根ざしたところが同じ状態になるまでは、けっして。蝸牛に言われるのはあまり好ましくない事ばかりだった。その審議をクスでは調べようもなく、同時にどうしようもなかった。
紫陽花に霧吹きを掛けていると必ず視線の合う天窓。
確か、目を開いて初めて見たのも灰の色をした空だった。時々雲の輪郭をなぞる様に燐光はまたに目を焼いては消える。そんな不可思議な静と動が混在してひしめき合っていた。
そして、真っ黒な棺に納められていた自分自身を認識するには少しばかり時間を要した。何を考えていた訳でもない、それが本能と呼べるものだったのかもしれない。
棺からよろけた足でどうにか立ち、そして、同じ様に開け放たれた棺を見る事になった。
からからにひからびたそれにぞっと寒気がやってくるのを感じた。そしてそれは弄ぶ様
に爪を立てて遊んでいるらしく、歯の根もうまく合わなくなった。思えばそれが恐怖という感情だったのかもしれない。
「みんな乾いちまってる。今日がこんな天気だったんだ。なんとなくそんな気はしたさ」
「良かったのさ、これで。時を経て潤うことは出来たのだから」
「それでこれはどうする。市でも値も付けられない粗悪品の型だ」
「可動したっていうのも、尚更だから…どうしようか」
「あの…おれ、どうして此処にいるんですか」
初めて吐き出した声は潤いもなく酷く擦れたものだった。クスに世界の記憶、自身が何
なのかは解らなかったが、蝸牛と百足が言葉を話しているのは奇妙だと言うのは解った。
「ジッパーがある。ううむ、君はもしかしなくても初期の型だね。…それも生身を素体にした。という事は蝸牛がこの世界で一番数が増えるのは予め予想されていたのか。流石に環境さえも変えてしまう知恵を持ち得た生き物ならば、この程度造作も無いか」
武者小路は興味深そうに目を動かした。
「君、君、これは私が買おう。それなりに安くはしてくれるだろう」
「ええ、まあ…って先生またこそ型を飼われるんですか。先生くらいだったら猫なり烏なりもっと効率の良い型が飼えるでしょうに。特に後期の猫とか鼬は良いですよ、背にも乗れますし」
「背に乗れるのはこれだって一緒だろうに」
「いえ、これの場合は肩になるんでしょうが…」
「兎に角私が飼うといったら買うんだよ」
「あの、俺…」
「なんだい君も。私の意見に口を挟むのかい」
というよりも此処が何なのか自身にも解らなかったので問いたかっただけなのだが、紅い蝸牛が黙秘を要求した為に口をつぐんだ。もぞもぞと紅白の蝸牛とごく普通の蝸牛がやり取りし、終わった様で紅白の蝸牛が三角座りをしている己の元へとのったりとやってきた。
「時に君、名前はなんと言うんだ」
「え、っと…それよりあ、なたのお名前は…」
「君は自分から先に名乗るという習慣が無いのかい」
「いや、あの…ごめんなさい。あまり記憶が…」
「……ふむ、君。私を手に乗せ給え」
実に偉そうに命令するが、不思議とかちんとは来なかった。紅白の蝸牛を手に乗せるとべたりとした水と混ざった様な粘液が手に腰を下ろした方が不快感としては大きかったかもしれない。
「クレイドルの淵に番号と名前がある筈だ。…そう其処。あれ、千切れているね。辛うじて苗字だけか…九頭竜。クズ。いいや、とてもよろしくないな。濁りの音を省いてクスにしよう。うん良い名だ。君もそう思うだろう」
「え、っと…良く解らない、です」
「…まあ、そうだろうね。名は体を現す。まさにその通りだ。君の半分は案外薄情で根性も無いらしい」
ぺらぺらと饒舌に告げる蝸牛に答えを出せずに戸惑っていると、蝸牛は盛大にため息を着いた。
「半分って、名前の事ですか」
「漸く拾ってくれたかね。そうだ、少し言い過ぎたかもしれない。気に障ったなら謝ろう。君の人種からすると…東洋だったか。礼をする風習があった土地かな」
「いいえ、俺が何も解ってないので、勿体無いです。いつかに取って置いて下さい」
そう答えると、蝸牛は不思議そうに身を捩った。良く解らないので、自らも身を捩った。
「君はあれか、天然というやつなのか」
「天然ではないと思う。それより、これだと…海神の盟約も終わっているのかな」
「随分とまあ、君は初期の型の様だね。そんなものはとうの昔に水の底で魚にでも食われているだろう。残骸も無く食物の輪の一部になっているさ」
小馬鹿にする風に蝸牛は補完してくれた。確かに僅かに残る記憶とは地理も大きく変わっている。ましてや、地と呼べるものが失われているなど、どうしようも無かった。何よりどうして自分がこの姿になり、此処にいるのかさえ忘れ去っていた。
ぽたん、と遠くで音がした。
眠気を根こそぎ強奪された様に、簡単に視界が開く。鬱陶しいまでに窓を叩いていた水底からの使者も今は惰眠を貪っている様だ。冷えて湿った外気は厭に体温を奪う。上着を羽織り、階段を降りていった。
武者小路は蝸牛である以上、下の階の方が便利であるので二階は必然的にクスの所有となった。普段は水面の影響で青しかない夜に珍しく乳白の光があった。本当にごく稀にだが、武者小路が消し忘れているのかもしれない。
煌々と灯るのは、やはり灯火代わりの発光苔だった。其処には画面の落ちたクスの僅かな知識であるパソコンが鎮座していた。蝸牛が扱える様に特殊な処理をされていると武者小路は誇らしげに語っていた。クスを初期の型と言う割りに、武者小路もそうではないかと思う点もある。パソコンを扱えるのはクスが見るに武者小路しか今の処存在せず、製図を描くのもまた然りだったからだ。発光苔を覆う、硝子の蓋を開くとそうっと息を吹きかける。すると、みるみる内に発光苔の灯りは小さくなっていった。
気を緩めた際に、武者小路のパソコンに手が触れてしまった。同時に内側にあるものが触発された機器が蠢いた。
「…え?」
画面には製図ではなく、クスの様な型が複数写っていた。皆、髪の色も目の色もばらばらだ。然しジッパーは無く、これが武者小路の言う前の牛耳っていた生き物だろう。なんせ部位や四肢がクスにそっくりだからだ。同じものを見て、クスは何処と無く嬉しくなった。妙に派手な紅い髪の男とふざけて肩を回している黒髪の男。その目は武者小路がご執心な琥珀と似ている気がした。それを中心に囲う様に計7人の男女がいる。その二人の隙間からぼんやりとベンチに座っている影の薄そうな男。腕を回している男と何処と無く似ている気がするが、ピント自体があっていない為綿密には解らない。
「どうしたんだい、こんな夜更けに」
「いや、水音がしたから蛇口閉め忘れたかなと思って」
何故か緊張で胸がざわついた。なんとなくだが、本当になんとなくだが、これは見てはいけないものの様な気がしたからだ。
「ごめん」
「…どうして謝るんだい」
「これは、武者小路の大事なものだろう。消すから」
武者小路の答えを聞かず、クスはパソコンの電源を落とした。画面は暫くして、元の深淵を取り戻した。
「私は何も答えてはいないのだけれど」
抑揚の無い声音だった。故に武者小路がどう考え、そう言葉を発しているのか解らなかった。
「心配しなくてもそれは入っていただけの、ただの記録さ」
「そう、なんだな」
少しだけ抑揚を取り戻した武者小路に酷く安堵した。同時に勘違いをしていた自分に呆れた。
「君は眠くないかい」
「え。あ…まあ、」
「少し、付き合い給えよ」
クスの手を角で要求した武者小路にクスは為すがまま従った。そのまま外に行く様に指示を出され、扉を開く。たっぷりと保水した空気は吸うだけで重みを感じた。
「……これ…」
腹に力が十分に入っていない為か、とても呆けた声にしか聞こえなかった。水面に浮かぶのは、円環を描く虹だった。パソコンの様な深淵に浮かぶそれはとても幻想的な光景だった。思わず、クスが手摺から身を這い出す程に不思議な魔力があった。
「君の様な生き物は数が多く、文明を築いた」
唐突に武者小路が言葉を紡いだ。子守唄の様に、酷く優しい声音だった。
「たくさんの利器を生み出し、同時に壊した。そして、己達が此処で生き続けるには難しい環境へと変えてしまった」
視線は交わる事は無い。クスは影絵に迷いこんだ様な光景を眺め、武者小路の言葉にただ耳を傾けた。
「同時にそれが更に彼らを加速させた。当時の先進国が各1人ずつ…いや、偶然2人だった国もあったか、特に優秀な型を構造から創り、彼らが先を提示した」
「それで、いなくなったのか」
「いなくなったわけではないよ。少なくとも2人、此処に残っていた。1人はもう1人が残った事を知らない。会えているのか会えていないのか」
「――会えているよ」
衝動的に言葉がふいを着いた。自分の意志ではない、されど自分より自分を解っている様な得体のしれないものがクスを突き動かしていた。
「え、っと…確かぜんまいみたいな。…ああ、輪廻転生ってあるんだろう。そういう感じで、明確に会えなくても何処かで案外あっさり巡り会っているよ」
「…輪廻転生はちょっと違う気がするが…まあ、間違っては。何と言うか、君は本当に斜め上を行くから実に慰めがいの無い奴だ」
慰めと呟かれた事に、クスは疑問を抱いた。其処で漸く武者小路に視線を向けた。
「俺、慰められる様な事、したっけ」
「してはいないけれど…ほ、ほら、君たちの精神構造は複雑で少しの事で精神を病むと聞いたから」
急にまごまごとし始めた武者小路は殻に入り込もうとしたり、出ようとしたり忙しい。なんだか普段の武者小路らしくなく、滑稽だった。
「武者小路って、俺みたいな生き物結構好きだったんだな」
「…は?」
「悪態ついてる割に優しいから」
自然に欠伸が零れた。少し話して変な緊張が解れたのかもしれない。
「もう、眠るといい」
「有難う、武者小路」
その言葉を最後に全てがあやふやになった。柔らかな布団の感触に包まったので、ベッドに入ったのだろう。安堵してクスは意識を闇沼に落下させた。
武者小路はパソコンを眺めていた。
箱舟「ノア」、目標地に到着。画像を添付する。
異常発生、適合率が低い。こんなもの、データに無かった。
やはり実篤の推論が正しかったのか、こんなのあるわけがない。僕らの理論が可笑しかったなんて。
たすけてたすけてたすけてたすけてたすけて。
そのメッセージを最後に武者小路のメールは新着メッセージを受信していない。
「巻くべきぜんまいもあれば、巻く必要の無いぜんまいもある」
武者小路はパソコンを操作し、メッセージを削除した。
「蝸牛のぜんまいは有り得ないもの…詰まり本来巻くべきものじゃあない。そうだろう、実篤」
デスクトップの写真のベンチに座った男。紅い髪の男に腕を回した男よりも深い琥珀の目をしている事を良く知っている。
「実篤。私は、君にとって、必要なぜんまいなんだよな」
その問いに答えは無く、縋る様な武者小路の声だけが静寂に舞った。
(了)