G 蝶よ花よと
1
細い指がページをめくる。
白魚のようなと形容されるような、華奢なお姫様の手だ。
指は繰り返し同じ記事を読んでいるのを示すように、雑誌のページを交互に入れ換えた。
その花びらのような口から出てくる台詞を覚悟し、佐伯襄一郎は背筋を伸ばして直立しながら、目の前に座った少女を見つめた。
優雅な猫足の椅子に座る少女は、腰かける椅子の優美さに相応しい雰囲気を持っている。
山吹の地に百合を描いた振り袖に金泥の袋帯を胸高に締めて、ちょっと身体を捻るようにして座る姿は、まるで一服の絵のようだ。
少女の名前は相良十緒子。5年前の財閥解体後もまだ指折りの金持ちで、大名家の流れを汲む旧相良伯爵家の令嬢である。この相良家にいる10人の子供たちの末子にして一人娘である十緒子の警護役を任されているのが佐伯だ。
十緒子が誌面から顔を上げ、黒々と光る眼を向けた。まるで黒曜石のような―――三文文士ならば臆面もなくそう表現するに違いない瞳で佐伯を見つめる。
紅を塗らなくても花の色をした瑞々しい唇がほころんだ。
こぼれ出たのは真珠のように白い前歯と、「気配がします」―――そんな台詞だ。
「はあ…」
気落ちした返事の先には、「またですか…」という台詞が続く。
けれど、十緒子は佐伯の態度など一切気にもかけない様子で深く大きく頷いた。
「ええ。私の勘に間違いがなければ、これは私たちが調べなければならない事件です」
だが、花のような十緒子の笑顔に佐伯が投げつけた台詞は酷かった。それこそ、主従の関係を軽く逸脱するくらい。
「ふざけたことぬかさないでくださいませ、お嬢様」
コメカミを軽く押さえながら佐伯は遠慮のない溜息をつく。十緒子がポカンとした顔をして、それから曖昧に笑った。
「今、何と言いましたか?」
「いえ、何も」
この質問は佐伯に対する嫌味ではない。
この世間知らずのお姫様は、純粋に佐伯の台詞を聞き取れなかっただけなのだ。
だから、佐伯も今自分が思わず口走った台詞を忘れたフリして、十緒子の手から雑誌を受け取った。
十緒子が開いていた雑誌のページには、猫の連続死の記事が載っている。しかもいずれも絞め殺されて捨てられていたという、なんとも陰惨な事件だ。例え被害に遭っているのが猫だとしても、その背景には人間の狂気が垂れこめている―――少なくとも、この雑誌の記事を読む限りはそう思う。事件をセンセーショナルに仕立て上げようという意図が見え見えの、毒々しい文字がこれ見よがしに踊っているのだから。
よりにもよって、十緒子が今まで目を通していたのは、三流も三流、俗に言うカストリ雑誌と呼ばれる類で、女性の…ましてや十緒子のような少女の読み物としては相応しくないにも程がある。にも関わらず、これは十緒子の定期購読誌になっていて、届くたびに今号にはどんな事件が載っているのかと目を輝かせているのだ。
この雑誌の放つ毒を、お嬢様である十緒子がどこまで理解しているか、佐伯には分からない。
十緒子はこれ以上無いほどに蝶よ花よと育てられ、この世の汚濁を何も知らないまま育ってきた。汚いモノを知らない目には、汚いモノも汚く映らないらしい。下々の価値観から隔絶されて育った十緒子は、平気で佐伯やほかの使用人の前でも裸になるが、それと同じ無垢な好奇心でカストリ雑誌も読んでいるのかもしれなかった。
しかも、興味のある記事を見付けた後が、また無邪気過ぎて始末におえない。
「参りましょうか。佐伯、竹弥を呼んで下さい」
意気揚々と立ち上がった十緒子に、佐伯はガックリと肩を落とした。やっぱり今回もこうか…と思う。
「お待ちくださいお嬢様」と形ばかりは十緒子を止めることにした。
「これまで何度も申し上げたように、私は護衛ですので、わざわざ危ない場所へとお嬢様をお連れすることはできません」
意志の強さを示すように直立不動の姿勢になった佐伯の耳に、十緒子の戸惑ったような声が聞こえる。
「でも、これは私たちがやらねばならないお仕事なのよ」
「お言葉を返すようですが」
佐伯の声がますます硬くなった。
「お嬢様は職業婦人となられるお歳ではございません。そして私の仕事はお嬢様の護衛で、竹弥君の仕事はお嬢様の家庭教師です」
はっきりと言うと十緒子が黙り込む。諦めたか、と思った途端、十緒子が佐伯の横をすり抜けた。
慌てた佐伯に十緒子が振り返る。
「だって、佐伯と竹弥はついてきてくれないのでしょう?十緒子は一人ででも参ります」
ああ、またこのパターンか…。
佐伯が目に見えて脱力する。
十緒子の懇願は絶対拒否する―――そうは思っても、こうやって無理やり外出しようとされればついて行かないわけにはいかない。十緒子が主人で佐伯が使用人である以上、外出を強硬阻止するわけにはいかないのだから。
「記事では誰が何のために猫を殺すのかには触れておりませんのよ。その犯人と理由を私が知りたいと思っても仕方がないのではなくて?」
「ですが、お嬢様、今日は雨です」
「雨でも気になるの。お願い、行かせて」
無邪気に手を合わせる十緒子の仕草に、佐伯は負けを認めた。金持ちの身勝手は諌めるだけ無駄だ。女の我が儘には敵わない。子供の駄々は叱って治るものでもない。しかも、十緒子は金持ちで女性で子供ときている。抗えば自分が疲れるだけだ。
「畏まりました、竹弥君に声をかけてまいりますよ」
佐伯はせめてもの抵抗で、辟易した顔になってお辞儀した。
2
「もうここまで来たんだから、怒ってみせても無駄でしょう」
隣で忍び笑いをしながら宥める声に、佐伯は遠慮なしに顔をしかめた。肩を並べて歩く竹弥は、目元を柔らかく緩めて微笑んでいるはずだ。佐伯より4歳年下の竹弥だが、寛容さと忍耐力にかけては上を行く。佐伯を慰めるのは、常に竹弥だ。
今も微かな気遣いを指先で感じて、佐伯の顔にも苦笑が戻った。
着物の袖で隠すようにして、竹弥が佐伯の指先に触れてくる。佐伯は警備という役目柄、常に動きやすい洋装だが、相良家の食客にして十緒子の家庭教師である竹弥は着流しでいることが多い。
さっきまで降っていた雨は止んで、今は霧雨だか湿気だか分からないようなものが町並みを煙らすだけだ。
秘かに指を絡めて竹弥に応える佐伯の前を、洋装に着替えた十緒子が軽やかな足取りで歩いて行く。白襟の紺色ワンピースは地味なくらいだが、終戦の傷が残る街の中では、真新しい編みあげブーツを履いた姿はやはり目立った。
自分も相良の屋敷で暮らす身だが、十緒子を見ているとこんな敗戦のただ中にあっても、有る所には有るものだとつくづく人の世の不公平さを感じてしまう。
突然、十緒子が振り返った。
パッと手を離した二人に気付かない様子で、「佐伯、この辺が記事にあった場所ではありませんの?」
佐伯はさっき目にした記事の文章を思い出した。確かに猫の死骸は神保町の古書店街を中心に捨てられると書かれていた。大空襲でも焼け残った神保町には昔ながらの趣が残っていて、その長閑さと猫殺しの陰惨さがまったく釣り合わない感じがする。
そんな中、十緒子は近くにあった一軒の店をくぐった。「お邪魔いたします」と声をかけ、出てきた店主に向かって言ったのは、「このお店の本を全部いただきます。ですから、御存知のことを教えて下さらない?」という台詞で、聞いた店主が目を丸くする。
「教えてくれたら全部買う」というセコイ言い方をしないのが、金持ちの金持ちたる所以だろうが、こんな台詞、庶民にとっては暴言と同じだ。もし、本当に店にある品を全部買われたりすれば、在庫が一定量揃うまで店を閉めなければならなくなる。一見ありがたいようでその実全くの迷惑でしかない申し出に、主人が戸惑ったように十緒子を見、それから佐伯と竹弥を見た。
「あの…、御用件は何でございましょう?」
本来ならば一喝した上につまみ出したいところだが、十緒子の美貌と身なり、連れている用心棒を見れば、失礼なこともできない。ここは下手に出て、素早く穏便に引き取っていただこう――――そう思っているに違いない店主に向かって、男2人がちょっと頭を下げる。店主の表情がほっとしたものになった。
「御用件は何でございましょう?」
もう一度、今度はしっかりと十緒子を見据えて口を開く。
「猫のことです」
「猫?」
「御不快だったらごめんあそばせね。私、この辺りで頻繁に猫が殺害されているという記事を見たものですから」
十緒子の台詞に店主の目はますます丸くなった。
「猫殺しの記事って…あんなもの、カストリ雑誌にしか…」
良家の…いや、良家でなくてもまともな娘が読むものじゃないと続きそうな店主の口元を見て、佐伯は渋い顔になった。だから言わんこっちゃない、と思う。十緒子の身元が知れて、相良家の御令嬢がカストリ雑誌を愛読しているなどと噂になれば、十緒子どころか相良家自体が世間の嗤い者だ。
「いえ、見た者が口を滑らせてお嬢様のお耳に入れてしまったのです。お嬢様は大変な愛猫家でいらっしゃるので犯人や動機が知れないのは我慢がならないとおっしゃって」
佐伯が横から口を挟んで嘘八百を並べたことで、店主はやっと納得した顔になった。
「と申されましても、私も雑誌の記事に書いてあること以上は知っちゃいませんよ。猫がたびたび死んでいる、どうやら殺されているようだということだけで」
店主の話を信じる限り、収穫は何もないようだ。そうだろう。事実以上の情報まで書くのがカストリ雑誌だ。十緒子がフラフラと神保町界隈を歩く程度で収集できるネタなど、とっくに出尽くしているに違いない。
「これは本当に僕の出番になりそうだね」
ボソッと竹弥が呟いた。首を振ったのは佐伯だ。
「やめろ。できるなら、お前にあんなことさせたくない。俺だって他人事じゃ済まないんだからな」
暗澹とした佐伯の呟きに、竹弥が声無く苦笑した。
3
案の定、十緒子の聞き込みは何の成果も生まなかった。
闇雲に歩きまわるだけではただ疲れるだけである。主にお嬢様育ちの十緒子が。
「ダメなのかしら」
1時間もしないうちに十緒子の口からそんな台詞が漏れた。これは弱音ではない。本当に、どの店で聞いても一軒目と同じ回答しか出てこないからだ。店に入るたび十緒子の失望は大きくなり、比例して佐伯と竹弥が持つ荷物も重くなる。さすがに店一軒買い占めることはないものの、十緒子が店主へのお礼にと数冊ずつ高価な書籍を買いこんでいくためだ。竹弥は自分が欲しい本を買ってもらえるからどんなに重くても上機嫌だが、佐伯の方の我慢がそろそろ限界に近付いていた。
「もういい加減にケツまくって引き上げるって手段を選択してもらえませんか、お嬢様」
口調もぞんざいになっている。が、口調が雑になれば雑になるほど、十緒子の理解からは離れて行くもので、
「え?何かしら?」
小首を傾げた十緒子に向かって、佐伯が苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた。返って来たのは「佐伯、お腹でも痛いの?どこかで厠をお借りしましょうか?」という親切極まりないものだ。でも、帰ろうとは言わない。
「しょうがないよ」と竹弥が言った。
「荷物をどこかに預けよう。僕らは早くお嬢様をお屋敷に帰す努力をしなきゃ」
その努力がどういうものか知っている佐伯が小さく舌打ちする。
「お嬢様の性格じゃ、今日は帰ってもまた明日明後日と神保町に通い詰めるよ」
言われてみればその通りで、竹弥を見、十緒子を見、それからまた竹弥に目を移したときには、佐伯も渋々ではあるが腹を決めないわけにはいかなかった。
3軒目に立ち寄った店が年老いた女店主だったことを思い出し、戻った。新しく数冊買い込むことを条件に、買いためた本を相良の屋敷まで届けてもらうことにする。それと同時にしばらく十緒子を預かってもらうことにした。
竹弥が努力をしようと言いだした以上、十緒子は邪魔だ。
「いってらっしゃい」
十緒子は大人しく手を振った。これ以上無理に付いてこようとしないのは、方法はどうあれ、事件の真相が分かればいいだけだからだ。そこに“絶対に自分で調べたい”という気持ちはない。
十緒子がわざわざ出張るのは好奇心からである。そして、大概の場合、その好奇心と行動力は体が疲れた時点でガクンと目減りする。だが、体力が回復すると同時にまた好奇心も回復するのだ。
だから、十緒子の街歩きと事件への関心を押しとどめるには、十緒子が興味を持った事件そのものを迅速に解決するしかない。
それは分かっているのだが……
「お嬢様がカストリ雑誌を見て「気配がします」って言うたびに、俺がどんな気持ちになるか分かるか?」
建物の陰になった場所に竹弥と突っ立って、そうぼやいた佐伯に竹弥からの返事はない。
「お嬢様が言う“気配”っていうのは、“事件が大きくなる気配”ってことだ。確かに、お嬢様が目を付けた記事は、それが未解決だろうが解決済みだろうが、必ず後で倍以上に膨れ上がる。だから、真相を知りたいという気持ちは分かるんだ。だが、そこから後がいけない。走り出すのはお嬢様だが、結局の尻ぬぐいは俺とお前だ」
無言の竹弥に構わず、佐伯の愚痴は留まるところを知らない。
そんな佐伯は気付いているのかいないのか、竹弥の周りでゆるゆると空気が揺らぎ始めた。目を凝らせば、湿気を含んだ重い空気が竹弥に纏わりついているのが見て取れるかもしれない。そして、敏感な者であれば、この場の空気が微かに冷たく変わったのを感じるかもしれない。
竹弥の顔が急に歪んだ。
「あッ…」と小さな悲鳴を上げて腰を折る。そのまま、ぬかるんだ地面に突っ伏しそうになる竹弥を佐伯が左腕で支えた。
倒れ込んできた竹弥の身体は酷く冷たくなっていて、そのくせ額や首筋に脂汗が玉になって滲んでいる。
背丈は同じくらいでも、佐伯より幅のない体が痙攣した。佐伯の上着を掴んだ指先が、苦しさを物語るように血の気を失っている。
「大丈夫か?」
「待って…、もう少し……っああ!!」
身体が跳ねた。
ビクンビクンと海老のように反りかえり、「…佐伯さ……」
苦しげなその呟きが佐伯の行動の合図だった。
ちらりと周囲を見渡して近くに人影がないのを確認する。道路からの視線が無いのも見定めて、竹弥の口に袖を噛ませた。
「後ろ向け。人に見られる前にさっさと済ますぞ」
その囁き声に促され、竹弥が蒼白になった顔で頷く。いつ誰に見られてもおかしくない場所、時間だった。昼日中から男同士でこんな場所で盛っているのを見られたら……あまり想像したくない事実に、佐伯の焦りも大きくなる。
救いは一旦上がった雨がまた静かに降りだしたことだ。雨が降れば人々は早足になる。偶然ひょいと立ち止まって路地の奥を覗いてみるなどということもなくなるだろう。
建物の壁に両手を付かせ、着物の裾を背中までまくり上げると、もう慣れてしまった手つきで下帯から男根を引っ張り出した。
「…う…っ……」
竹弥の身体は素直だ。荒々しくしごけば背を反らせて快感を訴える。股から片手を差し込んで前を刺激しながら、佐伯は尻タブを指で掻き分け窄まりに口を付けた。丁寧に解している時間はない。だが、せめて濡らしてやらなければ竹弥にとってあんまりだ。
躊躇もなく舌を伸ばし、舐めるだけでなく襞をねじ開けるように舌を差しこむと、くぐもった悲鳴が竹弥から上がった。睾丸を揉んでやりながら股の間から覗き見れば、袖を噛みしめた竹弥が、血の気の戻った顔で悶えている。
「淫乱な面しやがって…。チクショウ、こんな場所じゃなきゃ、鳴くだけイイ声で鳴かせてやるのに」
悔しさを体現するかのように、窄まりを指で押し広げ、現れた柔らかな秘肉を舌で舐める。
「ふぅっ…!」
ガクンと膝が折れ、突き出すようになった尻に誘われるかのように、佐伯はベルトをはずしてファスナーを下げると、固くなった自分のモノを竹弥の中に埋め込んだ。
4
件の書店に戻ると、十緒子は店主の老婆が出した干し柿に行儀よくかじりついているところだった。例え干し柿と言えど、十緒子が持つと上品な干菓子に見えるから不思議だ。
店主から差し出された手ぬぐいで濡れた髪や服を拭きながら、佐伯は口を開いた。
「竹弥が猫の死骸が捨てられていた現場で掴みました」
情交で上気した顔を隠したいのか、佐伯の背後に目立たないように立つ竹弥に目をやり、十緒子も頷く。竹弥の能力を知っていて理解したというよりも、先を促すような仕草だ。
「警察に相談した方がいいかもしれません。このままだと殺人にまで発展しそうです」
「まあ」
佐伯の台詞に十緒子の目がまん丸に開かれる。
「この猫殺しはですね、とある小金持ちが金使いの荒い甥っ子に遺産を渡したくなくて、飼い猫に相続させると言いだしたことから始まったみたいですよ」
竹弥の能力は一種の依巫(よりまし)と呼ばれるものなのだろう。その場に漂う残存念のようなものを読み取る。希有なのは、それが人であろうが動物のものであろうが関係ないということだ。
他者の強い念を呼び込むことは自分を自縛してしまうに等しいことで、それを払うには、縛りつける念よりも強い力で弾き飛ばすしかない。自浄力を生み出す一番手っ取り早い方法が、我を忘れるほどの快感――――というのは竹弥の言葉だ。
「猫を殺していたのはその甥です。複数の猫が連続で殺されれば、遺産を継ぐはずの猫が殺されても、猫殺しの犠牲になった多数の中の一匹と思われますから。このまま放っておけば、焦れた甥が叔父まで殺すかもしれません」
「それは看過できない問題ですわね」
佐伯の報告に十緒子がスクッと立ち上がった。きっとこの勢いで向かうのは自分の家だ。なぜなら、さすが名門相良家。十緒子の兄たちは皆社会的に要職と言われる地位についていて、次兄は今年創設された警察予備隊の警務局長だ。
『やっと家に帰れる…』
佐伯は心底安堵した。今回も、何事もなく十緒子の散策は終わりそうだ。竹弥を見ると、竹弥も肩の荷を下ろしたかのように微笑んでいる。
「ったく、あのお姫さんは…」
振りまわされることを言外に愚痴った佐伯の目に、俯き加減の竹弥の横顔が映った。見ようによっては落胆している表情にも取れて、
「竹弥?」
怪訝に名前を呼んだ佐伯の前で、竹弥がちょっと肩を竦める。
「僕は少しばかり楽しかったりもするのですがね。お嬢様のお供を申しつけられるのは悪い気はしないし、ロクでもない自分の力が役に立つ。佐伯さんの熱を感じるのだって…」
その先は言葉を濁してすっと離れようとした竹弥の袖を、
「おいっ!」
咄嗟に佐伯が抓んで引いた。
不意をつかれたかのように、竹弥が驚いた顔で佐伯を見る。
「お、俺だってな、お前がいればお嬢様のお供は嫌じゃない。ただ…」
そこまで言って、二人の身体から立ち上る雨の匂いに気付いた佐伯は、決まり悪げに声を潜めた。
「お前のナニが良すぎて、腹の熱が引きゃしねぇから困るんだ」
密やかな告白を聞いた途端、竹弥は邪慳な程の勢いで袖を振りほどいた。反らした顔の眦が、ほんのり染まって見えるのは佐伯の錯覚だろうか。
そっけない態度と恥じらいと……
目の前の男は気恥かしい程の温さで佐伯の心を湿らせる。
佐伯の台詞がどれだけ竹弥を揺さぶったかは知らないが、十緒子の耳にはしっかりと前半部分が届いたようで、
「佐伯ったら、今更何を言っているの。私たちは常にTrio(トリオ)で真相究明にあたるのですわ」
目を輝かせて言った台詞に、佐伯は遠慮なく反駁させてもらった。
「お嬢様、寝言は休み休みおっしゃってくださいませ」
「まぁ、十緒子はしっかり起きております」
使用人とも思えないほどの無礼な言い草も、嫌味が分からない十緒子を笑わせるばかりだ。
クックックと引きつったような笑い声がする。
いつもはそぼ降る雨のように静かな男が、堪りかねたように肩を震わせる姿を見て、佐伯は目瞬きとともに口を閉じた。なんだか今日の気苦労の元は取った気がした。
了