M 雨の訪い
春先の淡く静かな雨が、ふんわりと庭全体を包むように覆っていた。
余り手をかけず、わざと自然に任せた庭の佇まいが、その雨のせいでいつにも増して奥深い広がりを感じさせる。
先ほどからその庭に向かい、雨に溶け込むような柔らかな笛の音を奏でているのは、この館の主、従三位の中納言、九条晴久である。
――九条の光の君。
そう宮中の女官の端に至るまで騒がれる美貌が冴え冴えと澄んで、しかし軽く伏せた瞳の端に滲む微笑だけが、その怜悧な印象を裏切ってどきりとするほど艶めいて見えた。
雨とはいっても、優しい春の日差しが庭のそこここに満ちている。
すらりと背筋を伸ばして縁先に座る晴久も、夢の中の人のようにほんのりと淡く照らされていた。
しかしその晴久の優美な指の動きにつれ、甘く切ない笛の音が高く低く、聞く者の心を揺さぶるように流れ続けるのに、それを聞く者の姿だけがどこにも見当たらない…。
晴久は人嫌いで通っていた。
よほどのことがない限り人と会おうとはせず、むろんその屋敷に誰彼を招いたこともなければ、滅多に参内すらしようとせぬ。
それでも晴久への帝の覚えが目出度いのは、その美貌と、それを鼻に掛けぬ万事に謙虚で控えめな態度、そして雅楽や詩歌への深い教養のせいであると言われていた。
亡くなった大叔父から譲られたという莫大な資産にも限りがないというが、その一方、その人間離れした美しさには、一目見ただけで魂を抜かれるというまことしやかな噂もある。
そんな噂を信じて、畏怖を込めてただ遠巻きに見るだけの者も少なくはないのに、それを押してまでも近づいてくるのは女ばかりでなく、密かに逢瀬を望む貴族の公達も後を絶たないというが…。
しかし誰がどれほどあからさまな誘いをしかけようと、人を寄せ付けない晴久の凛とした微笑にあって、それを押してまで彼の心の内に入れたものは未だなかった。
今もただ晴久の膝元で丸くなった猫だけが、時折小さく耳を動かしながら、満ち足りた寝息を立てている。
近頃何かと物騒がしい京の都の情勢も、こうして雨の中に囚われていれば別の世界のことのように思えるが、その時ふと、異質な気配を感じた晴久が横笛から唇を離した。
いつの間にか傍らの猫も毛を逆立て、わずかに開いた口の中で、聞き取れないほど小さな威嚇の声を上げている。
一様に薄く煙っていた雨が、庭の片隅の低木の横、はっきりそれと分かるほどに質感を増し、揺らめきながら濃い影を形作っていた。
そうと見る間に、影はみるみるうちに人の形を纏う。その影がやがてふわりふわりと庭を横切ってこちらに近づいてくるのを、晴久は呼吸を抑えつつ見守った。
「晴久さま…」
いつの間にか姿を消した猫の代わりに、すっきりとした薄青の水干を着た少年が現れ、晴久の背に縋りついた。その水干から覗く華奢な腕に、小さく鳥肌が立っている。
「悪い物ではない。静かにしておいで…」
少年を膝に抱えて撫でてやると、水干から覗くふわりとした尻尾が、やがて緊張を解いたようにぐったりと下ろされた。
それでもまだ怯えた目は見開かれたまま、庭の影に向けられている。
愛しさを込めた目で少年を見つめながら、晴久はその背を宥めるように撫でてやった。
そうして二人が息を潜めて見守る中、庭の影はついにはっきりと人の色と匂いを纏って軒先に佇んだ。
板敷きの縁側を挟んで蔀を開け放った座敷からも、その整った目鼻立ち、細かな衣装の拵えまで見て取れる。
そうして青年の姿となった影は、まだ顔立ちに少し甘さが残るものの、いずれ身分ある家の公達のように見受けられた。
身につけた白い狩衣にはびっしりと刺繍が施され、その生地を通して裏地の青が涼やかに透けて見える。人であるならば、よほどの身分の者のための仕立てであろう。
焚き染められた香も奥ゆかしく、こんな雨の日にも重くならぬ程度に品よく合わせられている。
その影、いや美しい青年は、晴久に軽く目礼して縁先の沓脱ぎに足を掛けると、しかしそこで手にした笏を戸惑ったように傾けた。
「どうなされました?」
不思議な青年を招き入れるつもりになっていた晴久が思わず声を掛けると、青年が困惑した顔を向けた。
「美しい笛の音に惹かれ、お話を聞いて頂きたく、ご無礼を承知でこうしてお庭にまかりこしましたが…」
そして足元を見て悲しげに目を伏せる。
「これではお座敷を汚してしまいます」
見れば青年は、雨には不向きな浅沓を履いていた。それでもその沓は少々の雨ならは弾くほどに磨きたてられていたけれど、脱ぎかけたままの沓脱ぎの石の上に、小さな水溜りを作っている。
雨の中から湧き出たその身体からも、いまだ小さな雨粒が滴り落ちていた。
「かまいませぬ。どうせここには私とこの子しかいないのですから。」
こちらに含むところがあって迷い出た生霊ではあるまい。青年の気配はあくまでひっそりとしていた。
かといって、誰ぞに放たれた式神というわけでもなさそうなのは、晴久にも気配で見て取れる。
(一体自分に何を言いたくて、わざわざ人の姿を模ってやって来たのか?)
それを知りたいと思うほどには、晴久の好奇心も募ってきていた。
「それではお言葉に甘えて…」
優しげな青年の姿にそれでもまだ怯えが残るのか、腕の中の少年が微かに身じろぐと、晴久の膝に軽く爪を立てた。同時にふわりと持ち上げられた尻尾の先が、晴久の腕を軽く撫でていく。
見た目に相応しい優雅な挙措で目の前に座った青年が、すっと手に持った笏の先をその少年の耳に向けた。
少年の耳はそれが当然あるべき場所にはなく、ちょうど猫のそれと同じように、可愛らしい尖りが二つ、さらりと流れる黒髪の間から覗いている。
その耳が、笏を向けられてピンと立った。
「この者は…?」
いぶかしそうに首を傾ける青年もまた、人とは違う質感を持つ霧の精のようであり、その癖、少年の姿形に目を見張って驚く姿が晴久の笑みを誘う。
「この子は瑠璃といいます。」
「るり?」
「はい、この…瞳のせいでしょうか、ずっとそう呼ばれてきたと聞いています。」
瑠璃と呼ばれた少年が、その蒼い目を晴久に向けてうっとりと微笑んだ。
「ずっと…と言われると、ではこの者はあなた様に会う以前はどこに?」
何か晴久に聞いて欲しいことがあって現れたはずなのに、青年はどうやら瑠璃に気を取られているらしい。
昼間は猫の姿でいることの多いこの少年は、晴久の大叔父に当たる人物が唐人から貰い受けたものだという。
特に相手の話を急がせるつもりのない晴久は、どうせ他人には言えぬ自分と少年の話を、青年の姿をした目の前の影に語って聞かせることにした。
「叔父が言うには、この子は元は唐の皇帝の飼い猫であったそうですが…。」
そしてそう前置くと、晴久はかつて叔父から聞かされた瑠璃の話を物語り始めた。
―――その昔、権謀術策がはびこる彼の国の宮廷に、誰一人心を許さず、産みの母すら信用しない、一人の皇子がいたという…。
その皇子はただ瑠璃色の瞳の猫だけを愛し、その猫だけは片時も側から離さずに可愛がっていた。
猫だけを話し相手として育った孤独な皇子。
その皇子は長じて皇帝となるも、やがて獣の寿命は尽きようとする。
親兄弟の死にすら動じなかった皇帝はその猫を失うことを嘆き悲しみ、国中を探して「瑠璃」と読んだ彼の宝を永らえさせる術者を得ようとした。
やがてある高名な術師が皇帝の前に進み出て言う。
「この者の命はとうに尽きておりますが、恐れ多いことに、皇帝陛下の深い慈しみの情に惹かれ、まだこの世に魂魄がとどまっておりまする。獣とはいえここまで陛下を想って永らえた命、もしお望みとあれば、お側に留まらせることは可能でございますが、それが果たしてこの者の幸せとなるかどうか…」
それを皆まで言わせず、皇帝は術師から精合の術を聞き出した。
術師はまず猫の身体から魂を抜き、その亡骸を人型に入れて皇帝に差し出す。
皇帝は術師の命に従って、その人型を三日三晩の間、密かに寝所に入れて抱き続けた。
そして三日目の夜、一心不乱に呪文を唱えていた術師が堂の中で命を落とすと同時に、瑠璃は美しい少年の姿で息を吹き返した…。
「叔父はこの子の記憶を読んだと言いますが、それがまことかどうかは分かりません。その術師が使ったのは、古代から伝わる禁術だと言いますが…」
本来その人型には獣の魂など入れるべきではなく、まして皇帝だけが慈しむために作られたものでもない。
人型は「御合の器」と呼ばれ、人の精を集めて移し変える道具であった。
そのため「御合器」は美女の姿を取ることが多く、若く美しい男と交わってその生気を取り込んだ後、皇帝に謙譲される。
皇帝がその「器」を抱くことで、体内に若者の精が取り込まれ、いつまでも老い寄せ付けず、若さを保ち続けられると信じられていた。
しかし他の男が瑠璃に触れることを皇帝が許さなかったために、瑠璃は器でありながらその本来の役目を果たせなかった。それでも瑠璃は皇帝の精を受けるたび、自分の中で出来る限り浄化し続けたらしい。
そのため皇帝は人より緩やかに年を取り、そのままであれば瑠璃と共に長寿を全うしたはずであった。
しかし、疲弊していた国の政局がそれを許さなかった。
国中で皇帝の統治に対する不満が爆発し、勢いにのった叛乱軍が都に迫る中、自分の死を覚悟した皇帝は一人の臣下に瑠璃を託した。
そして一緒に死なせて欲しいと泣く瑠璃に、皇帝は家臣と共に生き延びることを命じた。
「なぜまた…そんなに可愛がっていたものを他の男にくれてやるなど…」
すっかり晴久の話に聞き入っていたらしい。深い吐息と共に、尋ねるともなく青年が小さく疑問を口にした。
「そうですね…でも、その気持ちは私にも分かるのですよ…」
今にして思えば、この子と番っていたせいであろうか、大叔父も最後まで老け込むこともなく、ある日、全ての準備を整えて一人静かに大往生を遂げたのだったが…。
――その大叔父がこの家に密かに晴久を招いたのは、亡くなる数週間程前のことだった。
都に名高い陰陽師であった大叔父は、その頃はとうに役目を退いて、都の外れのこの家でひっそりと暮らしていたけれど、その日、珍しく晴久の両親の屋敷に使いを寄越した。 <
見栄っ張りの貧乏公家だった晴久の父母は大叔父にかなりの借財があったらしく、影では大叔父のことを化け物呼ばわりする癖に、面と向かってはいつも卑屈なまでに腰を屈めてみせた。
子供心にそんな父母を疎ましく思っていた晴久は、父母よりはよほど年上のはずなのに、いつ見ても若々しく毅然とした大叔父に少年らしい憧憬を抱いていた。
「久しいの、晴久。」
しかし、久しぶりに会った大叔父は晴久にゆったりと微笑みかけたかと思うと、そのまま不躾なほどまじまじと晴久を見詰め、挙句に晴久が顔を赤らめるようなことを言ってのけた。
「思った通り、美しゅうなったが…どうじゃ?そなたもう、どこぞの女子と契ったか?」
「お、叔父上!」
「ふむ…やはりまだ清童のままであったか…」
「おじうえっ、一体なにを…」
いきなり何を言い出すのかと抗議の声を上げようとした晴久は、しかしその時、自分と同じ年頃の美しい少年が大叔父の傍らにいることに気づいて息を呑んだ。
いつからそこにいたものか…。
人に美しいと言われることには晴久も慣れてはいたが、その少年の美貌はまるで現のものとは思えなかった。
(この目は…)
――その瞳は晴久が今までに見たどんな空より、深く蒼い。
そしてその瞳を見た瞬間、ずきりと晴久の身体を貫いた衝撃はなんだったのか…。
その場に立ち尽くし、ただ魂を奪われたように茫然と瑠璃を見つめる晴久に、大叔父が満足気に息を吐いた。
そして少年から目を離さない晴久に苦笑しつつ、大叔父が少年を膝に抱え上げた。ようやく晴久の目線が自分に向けられ、やがて膝の上の少年に吸い寄せられるように戻っていくのを見てまた笑みを漏らす。
「この者の名は瑠璃という。」
「るり…」
「その名の通りの美しさであろう?」
そう言いながら大叔父は膝の上に乗せた瑠璃を優しく抱き寄せ、白磁のような頬に指を這わせた。大叔父の腕に身体を預けたまま、瑠璃がうっとりと目を閉じる。
睦まじい二人を見て、晴久の中にぴしりと何かに打たれたような痛みが走った。
しかしそんな不意打ちのような痛みに戸惑う間もなく、大叔父が更に驚くべきことを晴久に告げた。
「今日そなたを呼んだのは、実はそなたにこの瑠璃を任せたいと思うてのこと。」
「わ、私にこの…瑠璃どのを…?」
「むろん、この屋敷もそなたに譲る。播磨の国にある荘園の権利、内裏に近い屋敷と土地も、私のものは全てそなたに託そうぞ。」
大叔父は京でも指折りの資産家であった。
陰陽道に通じる大叔父は、かつては帝のご病気すら治癒したことがあると言われており、播磨の国に大きな荘園を所有する他、都の内外にも沢山の屋敷を持つ羽振りの良さであった。
とはいえ、生涯妻も娶らず、子も成さなかった大叔父は、陰陽師の職を退いて後は滅多に人と会うこともなく、晴久とて特に可愛がって貰った記憶もない。大叔父に会うことすら、今日が幾度目かというほどである。
その自分に、大叔父はいきなり財産の全てを譲ると言う…。
混乱した晴久は、ぽかんと口を開けたまま返事もせずに大叔父を見つめた。
「瑠璃はそなたを気に入っておる。」
領地や屋敷を譲られると言われても戸惑うばかりの晴久だったが、その言葉に、さっと頬に朱が上った。
ただ、肝心の瑠璃を見れば、大叔父の胸にすがり付いたままで晴久の方を見ようともしない。
がっかりした晴久が思わず肩を落とすと、大叔父がくすりと小さく笑みを漏らした。
「本当じゃ。わしに捨てられると思うて拗ねておるだけで、そなたのことは昔から気に入っておる。」
「昔から?」
「そなたを屋敷に呼んだことがあったであろう?」
最後に大叔父の屋敷を訪れたのはもう二年も前、晴久が十四の秋だった。
一度見たら決して忘れるはずのないこの少年を見た覚えはなかったけれど、晴久は首を傾げつつ頷いた。
「あの時、そなたを瑠璃に見せたのじゃ…。子供の頃から美しい子であったし、そなたならあるいは…と思うておった。母御がそなたをどこぞに婿に出す前に話をせねばと思いつつ、なかなか心が決められずにいたが…私ももう長くはない。」
そして膝に瑠璃を抱いたまま、スッと居住まいを正すと大叔父が晴久を真っ直ぐに見つめた。
「これから話すこと、決して人に話してはならぬ。そして話を聞いてしまえば、もはや断りを入れることは許さぬ。」
「おじうえ…」
「それでも瑠璃が欲しいか?」
最後は優しく目元を緩めた大叔父に向かって、晴久は大きく深呼吸した後、背筋をしっかりと伸ばして頷いた。
その晴久に向かって大叔父は、晴久が青年に語って聞かせたのと同じ話を物語った。
そして最後に至極真面目な顔で、この美しい少年を生かすには己の精を注いでやらねばならぬことを付け加えたのである。
「お、おじうえ、それは、その…つまり…」
赤くなって視線を泳がせる晴久に大叔父は苦笑したが、しかし直ぐにその表情を引き締めた。
「これからすること、まだ清童のそなたには辛いかもしれぬが、目を逸らさず心して見るように。」
「はぁ…」
「まずはこう…このようにして口を吸ってやると良い…」
「!!」
絶句した晴久の目の前で、大叔父が静かに瑠璃の水干の紐を解いた。と、暗くなり始めた座敷に煌々と明かりが灯り、そのまま大叔父はこれ以上ないほど丁寧に瑠璃を抱いてみせた。
その身体を余すところなく愛撫し、どう触れればどのように反応するのか、全て晴久に覚えこませようとするかのように見せ付ける。
晴久にとって永遠に続くかと思われたその時間は、華奢な瑠璃をかき抱いた大叔父が、逞しい腰を何度も激しく突き入れた後、終に背を震わせて果ててようやく終わった。
目を閉じることも出来ず、全身をこわばらせてその全てを見詰めていた晴久を、ふわりと絹物を羽織っただけの大叔父が引き寄せる。そして敷物の上にぐったりと身体を投げ出した瑠璃に、晴久の顔を押し被せるようにしながら優しく話しかけた。
「るり…ここにいるのは晴久じゃ。よいか、これからは晴久がそなたの主となる。良い子にして、晴久にたっぷりと可愛がって貰え。いいな、瑠璃…」
うっとりと潤んだ瞳で大叔父を見ていた瑠璃はしかし、その大叔父の声に思いがけないほど激しく反応した。
それまでは晴久の前で殆ど口をきかなかったのに、身体をぶつけるように大叔父に飛びつくと、美しく透る声で大叔父の名前を呼びながら泣きじゃくる。
「いやっ!嫌です。もう置いていかれるのはいや!どうかお供させて下さい。私も共に…最後までご一緒させて下さい!」
先ほどまで大叔父に抱かれていた裸身が薄く汗に濡れ、ほんのりと桃色に染まっている。全身を震わせて大叔父の名を呼ぶ瑠璃は壮絶なまでに美しく、晴久は殆ど息をするのも忘れて見蕩れた。
そんな瑠璃を愛おしそうに抱きしめると、やがて大叔父は名残惜しそうにその身体をそっと晴久に向けて押しやった。
倒れこんできた裸身を思わず手を伸ばして抱き止めた晴久は、そのしっとりと掌に吸い付くような肌に陶然となった。
「それはならぬ。そなたは晴久と共に生きよ。」
大叔父の言葉に激しくかぶりを振る華奢な身体を、もう二度と渡すまいとするように晴久は固く抱き締めた。
「晴久はまだ若い。それに…」
いたずらそうに大叔父が笑みを漏らした。
「まだ子供で女の肌身も知らぬ。そなたのことをきっと大事にして、末永く愛しんでくれよう。」
そして晴久の目を覗き込むようにして聞いた。
「そうじゃな?」
咄嗟にその大叔父の目を睨み返すようにして頷いた晴久は、きっと生まれて初めて見せる男の顔をしていたはずで、そんな晴久を見た大叔父は満足気に、しかしどこか寂しそうな表情で頷いた。
「まだ瑠璃の中に私のものが残っておる。今ならそなたでも出来るであろう。抱いてやりなさい。」
わざと晴久を挑発するような露骨な大叔父の言葉に、頭の中が一時に燃え上がり、晴久はまだ大叔父に向かって手を伸ばしている瑠璃を押さえ付けると、そのまま激しく組み敷いた。
「あの時はこの子に随分と可哀想なことをしました。けれど、どうしても瑠璃の中から叔父上の痕跡を掻き出してしまわねばならぬ気がして、ただもう闇雲に…」
そう晴久が語り終えると、頬を赤らめて話を聞いていた青年がそっと肩を落とした。
「それはまた、なんともはや…しかし、そのようなことであれば晴久様はきっと、瑠璃殿の他、どなたにも心を動かされることはないのでしょうね…」
「ええ…どうやらそれが過ぎて、人嫌いで通っております。」
小さく吐いた晴久の溜息をどう取ったか、目の前の青年がおずおずと晴久に手を伸ばした。
「私は…私ではいかがでしょう…?」
「は?」
「人は…私を美しいと、そう言って下さいます。」
そう呟くと、青年の目が懇願するような色を浮かべて晴久を見た。
「私では晴久さまのお心を動かすことは出来ませぬか?」
その気もないのに下手に応じれば、却って恨みを買うことになる。期待を籠めた青年の眼差しに、晴久はただ静かに首を振ってみせた。
「ああ、悲しや…」
ふっと目の前の青年の姿が、一瞬、霧のような靄を残して掻き消えた。
目を床に落とせば、青年が座っていた敷物に、ずっと彼が手に持っていた笏が置き忘れられたようにぽつりと転がっている。
「そなたの正体はこれであったか…」
ふと、手にした笏に向かって、晴久への恋情を切々と訴える、美しい青年の横顔が浮かんだ。
持ち主の心を汲んだ笏が、この雨に紛れて晴久に彼の想いを伝えにやって来たものか…。
張り切ってやって来たのはいいが、晴久の話を聞いてがっかりしたらしい。もはや帰る気力も無くしたようだった。
そう思ってみると、敷物に転がった笏が何やら不貞腐れているようにも見える。
(雨の日にはおかしな者が現れることだ…)
この屋敷の周りには、晴久に悪意を持つ者を寄せ付けぬよう、大叔父の作った結界が今もしっかりと張り巡らされている。
だから現れたのが悪い者では思っていたけれど、転がった笏の姿に一層可笑しみがこみ上げた。
(持ち主に返してやらねばな。)
「はやみみ、早耳はおるか?」
屋敷と財産の他に、大叔父はよく仕込まれた式神を幾人か晴久に付けてくれた。
晴久自身にはその方面の才は全くと言っていいほどなかったけれど、大叔父との契約がその死後も彼らを縛り付けているらしい。一見して人にしか見えない優秀な式神たちは、晴久によく使えてくれる。
待つほどもなく、名を呼ばれた式神が蔀の陰から顔を覗かせた。
「はい、これに。」
「さき程の客人、見ていたであろう?」
早耳はその名の通り噂好きで、何でも耳に入れておかなければ気がすまないところがあり、それだけに都の情勢にも通じていた。
ただ、主である晴久相手に覗き見も辞さないのはいかがなものか…。
今も、見ていたであろうと問われ、早耳は悪びれることなく微笑を浮かべた。
「あれは一条の宮の忘れ形見で、式部の卿恒矩と申されるお方。あの通りの美しさゆえ、宮中でも女官共に騒がれておりまする。」
「もちろん、殿ほどではございませんが。」と澄ました顔で余計な世辞まで付け加えるところが、しかし早耳の憎めないところだ。
「そちのことじゃ、その式部の卿殿のお屋敷も知っておろう。これを返してきてくれぬか?」
張り切って頷いた早耳が、軽く腰を屈めて笏を受け取ると、瞬く間に廊下の向こうに駆けていく。
それを見送ってふと気がつけば、いつの間にか雨は止み、庭は明るい日差しに満ちていた。たっぷりと水を含んだ庭の木々も美しい緑に輝いている。
雨の後の清浄な空気を胸一杯に吸い込んで、晴久がゆったりと腕を伸ばすと、猫の姿の瑠璃も晴久の傍らで大きく胸を反り返らせた。
「器」というものの性なのか、それとも瑠璃を作った術師の手に寄るものか、はたまた獣の時からそういう性質であったのか、瑠璃は主に対する情が人一倍濃い。
大叔父と別れる時も共に逝きたいと泣いていたが、晴久に懐いた今は、晴久が逝く時こそは共に…と決めているらしい。
(されど…)
今はまだ考えられぬとはいえ、晴久も瑠璃を連れてゆく気はなく、いつかは瑠璃を託す相手を見つける気でいた。
「いずれ人の世は変わり、誰にも瑠璃の姿が見られぬ…いや、見ようともせぬ世が来る。」
そう大叔父は言っていた。
それがいつのことになるのか晴久には分からないけれど、せめてそんな世が訪れるまでは、この愛らしい生き物を生かしておいてやりたいと思う。
「器」である瑠璃の記憶にはそれまでの主の姿がそのままに残されている。晴久には見えないが、大叔父には瑠璃のこれまでの主への想いが全て読み取れたという。
そうであるならば自分の瑠璃への想いもまた、瑠璃と共に生き続けるのであろう…。
小さく喉を鳴らした瑠璃を優しく撫でると、晴久は光に満ちた庭に向かい、また一人静かに美しい笛の音を奏で始めた。