H 甘いコーヒーを

群青の空
前泉 樹生

「いい加減にしろよ。だから、もうお前とはやっていけないと言っているんだ」

 ケイチに別れ話を切り出したのは、半年も前のことだ。

 持ち前のプライドの高さでそれを跳ねのける、相変わらずの傍若無人ぶりに呆れ果て、いっとき流されかけたことがあったのは事実だが。

 それさえにも疲れ、自分の中で完璧に、この数年間付き合った男との糸をぶった切ったのが1ヶ月前。

 若い頃ならばそれでも繋ぎ合わせられただろうそれも、三十路を迎えたオレにはもはやその作業さえも面倒で。

 オレの怒りが冷めたころだとでも目論んだのか、何食わぬ顔で訪れいつものように懐柔しようとする男相手に、心動くものは微塵もなかった。

 平日の午後、玄関先で争う声がどこまで響いているのか気にならないわけではなかったが。意地でも部屋には上げないと抵抗と拒絶の言葉を吐き続けるオレに、始めは下手に出ていた相手もヒートアップしていき、聞くに堪えない罵詈雑言さえ飛び出してくる。

 よくこれで、芸能界などという上下関係の厳しい世界でやっているものだ。

 いや、やっていけているのか、実際は怪しい。周囲の苦労が目に浮かぶ。

 付き合っていたこの数年。オレもまた、何度も痛い目を見させられながら、自尊心の高い男の性格を習得してきたので。最低な言葉も態度も今更すぎて傷つくことなどなく、ただただ情けなさが募るだけだった。

 だが。

 自分が思うほども、冷静であるわけでもなかったのだろう。

 突然部屋に響いたチャイムに、自分でも驚くほどにビクついてしまった。情けない。

 ドア一枚隔てた場所にいる訪問者には、住人が取り込み中なのはわかるだろう。わかってこその訪問だ。だとすれば、そんなものは無視すればいい。どうせ、注意か苦情だ。

 だから、そう。普段ならば取り込み中だと居直り、そうしただろう。

 けれど、オレは驚きのまま突き動かされるように、チャイムなど聞いていないかのようにオレを貶す男の脇から腕を伸ばし、その後ろにある玄関を突き開けてしまい――

 そこから見えたものに、身体が固まった。

 オレの視線の先には、黒光りするカメラ。

「……ぁ、」

「オイ、アンタなに出て――」

 勝手に動いたオレを非難しながら掴みかかってきたケイチの手が、ドアノブを握るオレの腕を引き戻そうとして、オレと同じように動きを止めた。

 最悪な事態が起こったと、流石に頭に血が上っていたコイツにもわかったのだろう。

「ども、こんにちは」

 平坦な声に、血の気が引いているだろう顔を向けると、知らない男がいた。当たり前だ、パパラッチなどに知り合いはいない。

「スンマセン、ちょっといいですか?」

 そう言って、首から提げていた一眼レフのカメラを片手で掴んだ男が、そのまま構えるように腕を上げた。

「…や、その、」

 いえいえ、まったく、全然、良くないです。

 だけど、このまま若手タレントの男色趣味がスクープされれば、コイツとは一番手っ取り早く縁を切れるんじゃないか? オレもダメージを喰らうが、それほどでもないはずだ。しかし、ケイチが仕事を干されたら、逆恨みし無茶をしてくる可能性もあるような…?

 事態についていけないままも、勝手に打算を繰り広げる脳に感情も追いかねて。何も決められず呆然とするばかりのオレとは違い、いち早く動いたのはケイチだった。

 さすが、オレ様単純男。

 チッ!と得意の舌打ちをすると、オレを突き飛ばすようにしてノブを奪い、そのまま大きくドアを開いて訪問者を威嚇し後退させる。

「お、おっと!」

「…テメェ、憶えてろよ」

 ひらけた空間を踏みにじるような勢いで足を突き出し、呪い殺すような声でボソリとそう言うと、振り返りもせずに去っていく。出会った頃から、歩が悪くなるとキレるか逃げるかだ。本当に、わかりやすい男だ。

 だが。追い返そうとしていたのだけれど、このタイミングでこんな去り方をされるのは正直複雑である。

 っつーか、放っていくなよ、オイ。

 お前への客だろう、明らかに。

「いや、なんだか凄く邪魔をしたようで悪いんですが…」

 恨みがましく逃げた男の背中を追っていると、遠慮気味ながらも主張を抑えない声がかかる。

「ちょっと、急いで頼みたいことがあるんですが、いいですか?」

「……はい?」

「この部屋、東京タワーが見えますよね?」

「…え?」

「少しでいいので、部屋に上げて頂きたいんですが」

「なんで…?」

「ベランダで、何枚か写真を撮らせて欲しいんです。虹の」

「ニジって…?」

「いま、架かっているんですよ。空に、ね」

 消える前に撮りたいんです、と。

 予想外の展開に、未だよくわからずにいるオレを、男が部屋の中へと促す。貴方も見てみてくださいと、オレの興味を煽ろうとする。

 が。

「――なんだよ、それ…」

 漸くやっと、手にするカメラが自分やケイチを狙ってのものではないと理解し、オレはその場で脱力した。

 裸足のまま玄関でしゃがみこみ、両手で顔を覆い突っ伏す。

 ――助かった。

 流石に、別れた相手とはいえ、不快しか与えないだろう下種な記事のネタにされているのを見るのは忍びない。

 そもそも、オレはもうそういった意味では付き合いきれず、別れるしかないのだが。ヤツ個人を心底嫌いなわけではないのだから、避けられる不幸ならば避けさせてやりたい。

 それくらいに、過去、オレはアイツに心底ハマっていたし。今も、その過去をなかったことにしたいとは微塵も思わない。気まぐれな男に振り回されていた日々は、思い出ならばそう悪くはない。

 ……まあ、これが終わりというのも、なんだかお粗末無様だけど。

 ……でも、言葉通りまだ別れ話を続けるつもりでいるのならば、ちょっとくらいなら痛い目を見せやろうかと思いもするが。

 っつーか、マジ。覚えとけってどこのチンピラだ。つくづく残念な男だ。

「えっと、どうかしましたか…?」

「……いえ、なんでもないです、大丈夫です。……突き当たりのリビングからベランダに出れるんで、虹でもなんでも、好きにどうぞ…」

 顔も上げず腕だけ伸ばし入室を許可すると、本当に大丈夫ですか?と一応気にしつつも、男はそそくさと部屋の中へ入っていった。

「…………虹ねぇ」

 目的はわかったが、それを丸ごと鵜呑みにするわけにもいかないので。脱力している場合じゃないとオレもその後に続く。

 たとえ家捜しされたところで、オレとケイチの関係を疑わせるものはなく、問題ないが。

 聞かれたであろう話は、別れ話以外のなにものでもない。もう終わったことだとしても、警戒するに越したことはないだろう。

 しかし、そうして向かったベランダでは、かくして。

 突然の訪問者は宣言どおり、空に向かってカメラを構えていた。一心に。

 漸くまともに見ることとなったその横顔は、予想以上に真剣で。ファインダーを確かめるその目に、邪魔は出来ないとこちらが遠慮してしまう。

「……アレも、客、か…?」

 一応、妙な真似をしないか視界の端で見張りつつ、オレはキッチンへ入り湯を沸かす。

 ケイチと出会ったのは数年前、番組の収録でだ。アイツはまだ二十歳そこそこの、タレント業を始めたばかりの新人で。オレも、まだペーペーの書道家だった。

 収録自体は10分ほどのコーナーで、直接話をすることもなかったが。その後、打ち上げ時に幾らか話し、互いに気が合うと認識したのか、簡単な連絡を取り合うようになった。そして、そのうち、そういう仲になった。

 最初からあの男は生意気で、鼻っ柱が強く、我侭だった。正直、タイプではない。それどころか、敬遠対象だ。だが、何故かケイチだけは違った。若いからでは済まされないバカなところも、最低だとさえいえるような幼すぎる面も、可愛い魅力的な部分だった。

 惚れたらしまいだとはああいうことを言うのだろう。

 恋愛に溺れるような性格ではないと自覚していたし、今なお自分はそうだと思うが。その反面、年下の傍若無人男にはまりきっていた。こんな別れでも嫌えないことを考えても、未だその気持ちは残っているのだろう。

 とにかく、オレはアイツが好きで堪らなかった。

 繋ぎとめるために縋ったことはないが、何度浮気を繰り返されようが許した。

 仕事を疎かにしたことはないが、彼の都合に合わせてスケジュールを組んだ。

 尽くしたつもりはない。ただ、幸せも、辛さも、何もかもを全身で味わった。オレは充分すぎるほどに、あの恋愛を満喫した。

 それを失くした今は、もう。ケイチに並んで歩く気力も意思もない。

 終わってしまったものは、復活しない。

「…………砂糖、要るかな」

 沸いた湯を止め、少し考え、カップにインスタントコーヒーを入れる。味は二種類だ。

 そう広くはないベランダを地味に動いていた男だが、オレが近付くとカメラを下ろし振り返った。

「ホント、突然こんなことを。すみません」

 同年代だろう。人馴れした雰囲気が、すらりと出てくる謝辞をいかようにも見せる。

「ブラックとカフェオレ、どっち?」

 両手に持ったカップの中を見せるように突き出すと、再び謝りつつも甘い方を選んだ。ちょっと意外だ。

「ずっと外に居たんで。有り難いです」

 両手でカップを握り暖をとりながら、熱いそれを啜り一息つく男を良く見れば。確かに、何だか濡れている。

 猫舌なのでまだまだ熱すぎて飲めないコーヒーに息を吹きかけながら、凝らした目を外へ向ければ。今も雨は降っているようだった。ごく細い、僅かな雨だ。ちょっと見ただけでは気付かない。

 視線を動かしただけでは見えないので、裸足のままベランダへ降り、男が見つめていたものを探す。

「…いつから降っていたんですか」

「この辺りは20分くらい前ですよ。もうそろそろ上がるでしょう」

 ほんのりと、いつもより淡い東京タワーに。かなり薄くなってしまっているが、まだアーチは切れていない虹。

 そして、半月に近い銀色の月。

 夕日が差し込み始めた中。その三つが、寄り添うようにそこにある。

「お陰で思った以上にいい写真が撮れました」

 首に吊るしていたカメラを外し、男がオレに小さな画面を見せてきた。

 さすが、他人の家を突撃して撮ろうというだけあり、実際に見るよりも綺麗に、感情的に、狙ったものが収められている。

「やっぱり、本物のカメラマンは違いますね」

 さりげなくデータを繰り、先に撮られた写真を確認すれば。危惧したようなものは一切なく、別の角度から撮った虹や雨景色のものだった。更に遡れば日付が変わり、どこかの喫茶店やブティックが現われる。

「そうだといいんですが。これは趣味みたいなものですよ」

「みたい、って?」

「タウン誌を作る仕事をしていまして」

 そう言い、一度大きくカップを傾け中身を飲み干した男が、ガサゴソと片手で足元に放っていたカバンを漁り、取り出した紙面を差し出してくる。

「記者ってわけだ?」

 幾分折れ曲がったそれと、空のカップを受け取りながら聞けば、「ちょっとした記事しか書かないので、そう言われるのも本物の記者さんに申し訳ない気がします」とサラリと言う。そこに、嫌味も謙遜も何も、一切ない。

「ただの営業・企画・総務担当の、サラリーマンですよ」

「なのに、こんなことするんだ。熱血だな」

 漸く飲めるようになったコーヒーを口に運びながら言えば。男ははにかむように苦笑した。目尻と頬に浮かんだ皺に、不覚にも可愛いなと思ってしまう。

 それが顔に出たのだろう。男が首を傾げた。

「なにか?」

「いや、何でもないです。それより、撮影はもう終わりですか?」

 誤魔化し、カメラを差し出す。だが、なかなか受けとらず、男はじっとオレを見つめてきた。

「な、なに?」

 何かマズったのだろうかと少し焦り、どもってしまう。

「いや……さっきから、ちょっと気になっていたんだけど」

「…何が?」

 緊張が高まるオレとは違い、何か考えているのか少しゆったりとした動きでカメラを取った男が。何を思ったのかそのまま、オレに向けてそれを構え、あろうことかシャッターを切った。

「どこかで見かけたような気がして」

「え…?」

 今? 今更? ――じゃなくて!

 それはケイチであって、オレじゃないんじゃないか…?

「オレ、ですか?」

「ちょっと笑って」

「は?」

「いいから」

「……いや、いきなり、ムリだし…」

 言っている傍からまた写真を撮られた。

「仕事、お休みですか? 何をされているのか覗っても?」

「…在宅ワークですけど」

 警戒心丸出しなオレをからかうように、何だか急に楽しげな表情で言葉を重ね始めた男にオレは混乱する。さっきまでは、真面目な男に見えたが、今は何だか軽く見える。急に、オンオフが入れ替わったみたいだ。

「間違っていたらスミマセン。もしかして、書道家の先生じゃない?」

「……」

「ああ、そうだ。確か持ってるはず…」

 何か閃いた男が、再び鞄をかき回し始めたその横で。オレの思考は高速で回転する。

 オレは全く会った憶えはない。手にするタウン誌と仕事をしたこともない。だったら、どこでだ?記憶に残るほど接したのか?

 っつーか、ここにきてまさか。ケイチのことを蒸し返すんじゃないよな? ゲイ話か?

顔出しなどめったにしないオレを憶えているならば、ケイチのことも知っているだろう。今は気付いていなくとも、直ぐに知るだろう。そうなったらこの男は、若手タレントと書道家の禁断の愛!のスクープゲットだ。しがないタウン誌を抜け出すビッグチャンスだ。

――なんて、流石にンなわけはないだろうが。でも、いま、絶対。なんかのフラグはバがチリ立っているような感じがする…。

何だ、何が起こるんだ!?と、若干恐慌状態になっているオレの前で探し物を見つけた男が振り返り、指に摘んだ小さなものを目の前に翳した。

 カメラのSDカードだ。

「半年程前、東女短のイベントに出たよね?その後、ハチマ商店街のにも。俺も別の取材でそこに行っていて、二日連続でキミを見たんだよ。っで、その次の日、偶々通った公園でも、砂場で子供と遊んでいるのを見てね」

 そう言いながら、男はSDを入れ替え暫く操作し、オレにこれが証拠だというようにその時撮ったという写真を見せてきた。

「……ホントだ」

 モニターの中では、真面目腐ったり、女子大生に鼻の下を伸ばしていたり、子供のように砂場で遊んでいたりするオレが映っていた。

 珍しくも二日連続で顔出しの仕事を入れたので、よく憶えている。おまけに、その仕事前にプリンだった髪をスポーツマンのような短髪に切ったのだが、ケイチには大変不評で、以降、そればかりが理由ではないが、オレは髪を切っていない。

 重苦しいので色は変えている茶髪のロン毛を思わず掴み、近いうちの散髪を誓う。

 まあ、今はオレの髪型はどうでもいい話だけど。

「なんだ、こんなことか…」

 なんてことのない話にホッとして力を抜いたオレの手元に、小さな紙が差し出された。

 男の名刺だ。

「キミにはこんなことでも、俺には需要だ。今なら、運命も信じるよ。なんたって、ここに来るまで数件の家を訪問したけれど、留守だったり断られたりした中、漸く了承してくれた相手が記憶に残る人物だったんだから」

 運命くらい感じても、良くないか?

 そう言って笑った男が、呆然とするオレに名刺を押し付け、鞄を提げる。

「いい写真が撮れました。今日はありがとう」

「え、いや…、それは良かったです」

「また、ここにお邪魔してもいい?」

 ……それは、このベランダに? それともオレの部屋にってことか…?

「いつ…?」

「じゃあ、次の雨の日にでも」

「…雨が降っても、虹が出るとは限らないと思うけど」

 何だか居心地の悪さに耐えかね、視線を泳がせてしまえば。その先で捕らえた空に、虹の姿はすっかりなくなっていた。

 夢が覚めるような早さだ。

 これも、夢じゃないか?

「雨の日の訪問なら、無情な追い出しはされないかなという打算なだけで、虹は関係ない」

「……いや、アレは別に」

 ケイチを追い出そうと奮闘していたオレを揶揄っているのだろう男に、思わず言い訳しかければ。妙な方向で宥められた。

「わかっている。だから、アプローチしているんだ」

「……。……別に、雨じゃなくてもいいですよ。コーヒーくらいなら出せるから」

「じゃあ、遠慮なくご馳走になりに来るよ」

 今度はオレも一緒に、甘いコーヒーを飲んでみるのも、いいのかもしれない、と。

 物分りのいい大人な顔ではなく、どこか少年のような青さを滲ませた笑顔に、オレは性懲りもなくドキリとし、そんなことを思ってしまう。

 通り雨が生み出したのは、虹だけではないのかもしれない。  



H 甘いコーヒーを