J  DEEP BLUE

A急列車
青虫

 少し焦っているのは、時間を気にしているわけではなく、頭上で急速に暗雲が垂れ込め始めているから。地面に落ちる影はどんどん広がっており、さっきからずっと、遠くに雷の音が聞こえている。そして自分は、傘を持っていない。天気予報では何て言ってたっけ?寝坊して見逃したことを、すぐに思い出す。

 予想にない空模様が、道草を叱っているみたいだ。

 自分の想像に苦笑しながら、三上純平(みかみじゅんぺい)は足早に歩いている。

 急いで事務所に戻る理由なんて……理由はあるけど、動機なんてない。まっすぐ帰りたくない気持ちが冒険心に変わり、駅までの判りきったルートを捨てて、細い裏路地へと迷いこませた。

 ターミナル駅からローカル線で一駅の、古い街だ。自分にとって、クライアントの一社がオフィスを構えている、という事実以上の関係はない街。この地方都市に移り住んで二年になるが、時間の大半を仕事に費やす中で積極的にあちこち出かけることはなく、生活圏内から微妙にずれたこの地区のことを大して知らない。方向的には間違っていないはずと進んでみたものの、大通りを一本はずれたそこは路地と路地が複雑に組み合わさった、見知らぬ道だった。

 また、遠くで雷の音。

 神様は優しくない。この、地上でせせこましく働く砂粒のような人間のうち一人が、午後のささやかなサボタージュを楽しむくらい許してくれたっていいのに。

 ふと、ひどく注意を喚起させる独特の音が響き渡る。金属的に反響するこの音は、そう、遮断機の警報音だ。かなり近い。誘われるままに角を曲がると、少し開けたその場所を、黄色と黒の縞々模様が塞いでいた。カン、カン、カンと赤信号が点滅し三両編成の電車が通り過ぎる――それから、雨。ぽつりぽつりと頬を打っていたのはほんの数秒で、すぐにシャワーになる。

 遮断機が上がるやいなや、スタートダッシュを切る。

 一秒でも早く濡れずに済む場所を確保したいという願いは、すぐに叶った。

 左手前方に、濃紺のひさしが目に入る。ガラス戸の前に置かれた一鉢のプランターを庇うように、ゆるやかな傾斜角度で付けられた小さなひさしだ。本来は日除けなのだろうが、今の自分にとってはじゅうぶんに心強い。

 ひさしの下に飛び込み、純平は濡れた服を手で払った。

 目の前では、ビーズのような大粒の雨がざんざんと降っている。

 隣り合って並ぶことになったプランターは、シンプルな黒い鉢に植えられており、純平の肩ほどまで高さがある。卵型の葉は、つややかに光る深緑色。濡れたアスファルトの匂いに混じって、かすかに独特の香りを放っている。不快なものではなく、むっとるすような埃っぽい匂いには、むしろ調和しているようにも感じる。

 ガラス戸の中を覗き込むと、オレンジがかったライトがうっすら灯っている。どうやらカフェのようだ。小ぢんまりした店の中に客はおらず、店員も見えない。ガラス越しにはそう悪くない雰囲気だが、実際はどうなんだろう。すぐには止みそうにない雨をしのぐためだけに、いつまでも入口を塞いでいはいられない。中に入るべきかどうか、自分の小心と相談しながらもガラス戸に手をかけられないでいると、迷いを見透かしたようにカウンターの奥からひょっこりと人影が現われた。

 白いシャツに、黒いギャルソンエプロン。視覚に明確に訴えるモノトーンだ。店主だろうか、一人の男が、ゆっくり大股で近づいてくる。

 カタン、開いたガラス戸によって、なまぬるい風が生まれた。

「雨宿りなら、中でしませんか?」

 雨音に紛れそうなほど静かでいて、不思議と通る声。

 はっと顔を上げてしまったのは、見ず知らずの人物からこれほど親切な申し入れをされて、無視できるほど礼儀知らずではないから、というのも理由のひとつだった。ただ、それだけが理由でないのも確かだった。

 押し出した声が、少し擦れる。

「……あゆ、ちゃん?」

 見上げた先の控えめな微笑は、やはり、見ず知らずの人物のものではなかった。

 彼の微笑が、控えめな様子を保ったままうっすらと消える。

 戸惑っているのだと思う。少なくとも、自分はそうだ。

 最後に会ったのはたぶん一年以上前だし、再び会うことはないとも思っていた。それなのに馴れ馴れしく呼んでしまったな、とか、混乱のままに考えることはあまりに的外れだ。

「ひどいな」

「え?」

「雨」

「あ、うん」

「よかったら入らない?」

「あ……うん」



「適当に座って」

 明りを抑えた店内は、悪天候とあいまって、薄暗く感じるほどである。それが通じたわけでもないのだろうが、天井のライトが一つ増える。狭いカウンターの他には、大小のテーブルが三台あるだけで、それらのうち一番小さな、奥の壁際にぴったりと付けられた二人掛けの席に着く。

 招かれたから入った、などというのが、いくら混乱していたといえ言い訳にすぎないことくらいわかっている。断ることもできた。また、彼にとっても招かないという選択肢があったはずだ。これが何かの駆け引きだったなら、すぐにでも白旗を上げたい。

「驚いたよ」

 ぐるぐるとそんなことを考えていたから、急にまた話しかけられて、びくりと肩が跳ねた。

「困ってそうだなと思って声を掛けたら、純平だった。いつから金髪になったの?」

 カウンターに寄りかかった彼は、こちらを見て苦笑している。穏やかな表情だ。ふっと力が抜け、自覚以上に身構えていたことに気付く。純平は、椅子の背もたれに少しだけ身体を預けた。

「けっこう長いけど、この色は、こないだ染めたばっか……てか、あゆちゃん、なんでこんなとこに?」

「こんなとこ、とはひどいな。一応、俺の店なんだけど」

「店?仕事は?」

「今はこれが仕事。銀行なら辞めたよ」

「……まじで?」

「まじで。あれ(、、)からしばらくして、退職が受理されたんだ。三十までには無理だったけど、一年遅れで開業まで漕ぎ着けた」

「そう……だったんだ」

「夢だって言ったの、憶えてない?」

 憶えているけど。三十までに脱サラして、カフェを開く。だなんて、夢とうより単なる冗談だと思っていた。

「純平こそ、なんでこんなとこに」

 これで二回目だ。自分が彼をそう呼んだように、彼もまた、自分のことを前みたいに呼ぶ。この状況のほうがよほど、夢の中のようだ。ほんとうに、なんでこんな所でこんなことになっているんだろう。

「俺は……仕事の途中で」

「仕事って」

「あれ(、、)からも変わらず、雇われデザイナー」

「そう。もうこっちには慣れた?」

「まあ……」

 本当は、知らない裏道を通ろうとして迷ったのだが、説明する必要のないことだった。

「お店、営業中だよね?」

「一応」

「じゃ、カプチーノひとつ」

 メニューはポストカード大の白い厚紙に、小さめの黒いフォントで印刷されている。

「気を遣わなくてもいいのに」

「せっかくだし。カプチーノ、ひとつ」

 人差し指を立てて再度オーダーすると、彼は苦笑をやめて、にっこりと頷いた。カウンターの中へ回り込む、すらりとした長身を目で追う。BGMのない店内に、窓を叩く雨の音と、カップの鳴る音が重なった。

 歩(あゆみ)は、簡潔に表現するならば――元彼、というやつだ。

 ただし、当時の彼は大手銀行の融資担当で多忙を極めるサラリーマンであって、こんなふうにゆったりした空間に佇むカフェのマスターなどではなかった。

 大学卒業後、純平は数か月の就職浪人を経て、この地方都市のとあるデザイン事務所に世話になることになった。二年ほど前のことだ。が、このエピソードは直接彼とは関係ない。

 移り住んですぐだったと思う。この街で最初にできた恋人が彼だったのだ。そのまま最後の恋人にならなかったのは、付き合って数ヶ月後には自分が浮気をし、一年を待たずしてフェードアウト気味に彼と別れたから。とびきり優しけど仕事優先で残業と休日出勤ばかりのエリート銀行マンより、少しでも寂しいとか暇だとか仄めかせばすぐにデートしてくれる恋愛至上主義者との即物的な関係のほうが、あの時は重要だった。

 あれ(、、)から、つまり別れて以来、一度も連絡を取っていなかった。不実なのは自分のほうだし、どの面を下げて会えばいいのかわからない。なんて心配をあっさり飛び越えて、今こうやって面と向かっている。

「彼とは、うまくいってるの?」

 どきりとしたと同時に、やっと核心を突かれたという気持ちにもなる。

「……振られた」

「……そう」

「あっちも(、)浮気だったし、結局長く続かなかった。自業自得」

 純平が報いを受けたことを歩は知るべきだと、ずっと思っていた。

「そんなふうに言うな」

 今でもやはり、彼は優しい。

「……あゆちゃんは?」

 この、六歳年上のとんでもなく優しい男と少しでも距離を縮めたくて、強引にちゃん付けで呼んでいた。

「そう簡単には、見つからないよ」

 歩はそうとだけ言うと、しばし止めていた手を動かし始めた。

 カッ、カッ、カッ。

 手にしたスプーン大の道具を、迷いのない強さで叩きつける。コーヒーの粉を量る道具だと思っていたけど、違うみたいだ。驚いて見ていると、そのままそれをエスプレッソマシーンにはめ込み、かちゃりと回す。彼の部屋にもおもちゃみたいな可愛いエスプレッソマシーンがあったが、それとはまるで違う、メタリックシルバーの重厚な機体だ。ボタンを押された時にピッと鳴った後、機械は数秒沈黙する。

 ゴッ。

 ズズッ……ズズズッ。

 突然、噴射音がし、蒸気が上がる。強烈なコーヒーの匂いが、一瞬遅れて立ち込める。次に、冷蔵庫から出したミルクを、ステンレスの容器に注ぐ。計量カップとミルクピッチャーを足して二で割ったような容器だ。それからエスプレッソマシーンのスチーム音をもう一度勢いよく鳴らし、ノズルの先に容器をあてがう。カプチーノ作りって、こんなに賑やかだったんだな。キュルキュルと音を立ててミルクを泡立てる作業を眺めながら、ぼんやりと思う。

「お待たせしました」

 やがて出されたのは、シンプルすぎるほどシンプルな、真新しくて真っ白いカップ&ソーサーだった。

 こんもりと泡立ったミルクをこぼさないように、まずはスプーンで一口すくう。ふんわり甘くて、苦手なコーヒーの酸味がなく、また苦くもない。言い換えれば――

「おいし……」

 独り言で終わってもよかった。

「ありがとう」

 返された一言の、語尾が微笑にかすんでいた。



 カップの中身と、窓の外の雨と、カウンターの中とで、ちらちらと視線を行き来させている。

 俯き加減ながらも、背が高い。久しぶりに見ると、そんな事実でさえ新鮮に感じる。

 短い癖っ毛は以前のまま、手ぐしで簡単にかき回したようなラフなスタイルに変わっている。それに、ひげを伸ばしたらしい。たまの休みに見かけた無精ひげではなく、顎のラインに沿って整えられた、濃いめひげだ。ストレートに男っぽいというのが率直な評価だなんて、品定めするわけじゃないけど。自分にはひげは似合わないし、短髪もあまり似合わない。というか、前髪で少し顔が隠れるくらいじゃないと落ち着かない。今は特に。薄っすら窓ガラスに映る自分を見ながら、湿気で広がる髪を撫でる。

 ゆっくりとした動作だったが、不意に、と思わせる挙動で歩がこちらを見る。

 何か喋らきゃ。妙な強迫観念に駆られながら、口を開いた。

「ディープブルーってゆうんだ、この店」

 メニューの裏側の、滑らかな筆記体で書かれたDeep Blueの文字には、さっき気づいた。

「単純だろ」

「え?」

「こんの、って苗字から付けた」

 紺色の紺に、野原の野。フルネームは紺野歩(こんのあゆみ)。外見とは違い、どこか中性的な彼の名前だ。

「ダークブルー、のほうが正確かもしれないんだけど」

 仮にも店名だし、ダークはね、と笑う。頭の片隅に広がる紺色のイメージが、数秒後、濡れた窓ガラスの向こうと直結する。

「ああ、それで、ひさしも紺?」

「単純だから」

「シンプルなほうが美的だよ、こーゆうのって」

「美的?いい言葉だね」

 茶化すトーンではないのに、思わず純平を笑わせる答え。

 奇妙に和んでしまった気分に割って入ったのは、携帯電話の着信音だった。

「ごめん」

 慌てて鞄を探り、けたたましく鳴る携帯電話を取り出す。ディスプレイに浮かび上がった名前は、いつもならわざと出ないことさえある悪魔の呪文だったが、今に限っては救われた気分になる。

「もしも」

『じゅーんぺー』

 応答さえろくに聞かずに、名前を呼びつける声。

「……純平ですけどなにか」

『なにかじゃねーよ、どこふらついてんだ?』

「ふらついてないよ。むしろ雨に降られて、動けないんですけど」

『じゃあ、濡れてでも帰って来い』

 魔王の言葉だ。

「ひどくない?」

『ひどくない。三時からの打ち合わせ、お前抜きで進めていいわけ?』

 魔王の正体は、上司である。純平が働く小さなデザイン事務所の、彼は社長なのだった。自分はそこの、雇われデザイナーというわけ。

「よくないっす。すぐ戻りまーーす」

 スピーカーの向こうのため息を、電源をオフにして断ち切る。残りのカプチーノを飲み干し、窓の外を見る。弱まる様子さえない雨模様だ。会計を頼もうと歩を振り返ったのだが、店主の姿はカウンターの中にもない。しかし不在は一瞬で、ひょっこりと姿を現した彼の手には、無個性なビニール傘が握られていた。

「使って。もっと早く出さなかったことを、怒らないでもらえるなら」

「カプチーノと交換だと思えば、安いよ」

「言い訳になるけど、傘の存在を今思い出した。まさか今日、雨が降るなんて」

「天気予報、何て言ってたか知ってる?」

「それが、寝坊して聞きそこなったまま……」

 言えば言うほど虚言じみていくことに直面した顔で、歩は困ったよう肩をすくめた。

 時に虚言よりも馬鹿馬鹿しく深刻な現実がある。純平は心から共感して頷いた。

「信じる」

「ああ、お代はいいよ」

 財布を出す素振りをすればそう言われると、実は少し予想していたけど。

「初回サービス、かな」

 その先は、全然、予想していなかった。

「何言ってんの……」

 笑っていいのか呆れていいのか怒ってもいいのか、そもそも真に受けていいのかもわからないし、もちろんそれらを追求する勇気はない。

「早く戻らなきゃいけないんだろ?」

 まごつく純平の前を素早く横切り、歩は手ずから入口のドアを開けた。遅れて外に出ると、じっとりした湿気がまとわりついてくる。鉢植えの木も少し雨に濡れ、葉の先から滴を落としていた。

「あ。この木、なんてゆうの?」

「これ?シナモン」

「シナモンって、スパイスの?木なの?てかこれ食べれるの?」

「これは観賞用だけどね」

 どうりで、独特ながら嫌なにおいではないと思ったはずだ。瓶に入った粉末のシナモン以外を見たのは、生まれて初めてだった。

 歩が笑いながらビニール傘を差し出すのを、恐る恐る受け取る。

「じゃあ……借りる、ね」

「うん。気をつけて」

 傘を開くと、透明なビニールを雨粒が次々と弾く。

 純平は振り返らずに、大股に歩きだした。今振り返って目が合ったりしたら、気まずいっていうか気恥ずかしいっていうか……何考えてるんだろう。自意識過剰だ、絶対。

 ずんずんと進んでいるけど、道はわからない。

 なんとか大通りまで引き返して、タクシーを拾おう。事務所に戻ったらまず、領収書を社長に突き付けてやる。

 整理できない気持ちの矛先を、魔王もとい社長に向けた瞬間、ここがどこであるかが判明した。

 背後で警報機が鳴り、遮断機が下りる。その向こうを通過した電車が減速し、最後尾の車両の一部を視界に残して止まったのだ。なんだ、駅の真裏だったのか。

 線路を伝うように歩くと、あれほど迷ったのが嘘のように、すぐに大通りへ出る。片側にしかホームのない、単線の小さな駅舎が見える。改札からばらばらと出てくる乗客の、傘の携帯率は高かった。急いで切符を買って駆け込めば間に合うかもしれないと、思わないではなかったけど。逡巡の間に警笛が鳴ってしまったので、見送ることにする。

 こんなに落ち着かない気持ちを抱えたまま、電車にのるのはなんとなく煩わしい。やっぱりタクシーにしよう。なるべく誰にも見られないところで、思いきりため息を吐き出したい。

 ビニール傘をくるりと回す。

 借りたものは、返したほうがいい。初回ということは、次回があってもおかしくない。確かめたのはそのことで、彼はそれを否定しなかった。

 口の中にかすかに残るカプチーノの香りは、まさに後味というやつで。

 少し甘くて、少し苦いのだった。



J  DEEP BLUE